153話 エルナとビョルンの離婚はなかったことになりました。
満面の笑みを浮かべながら
エルナに近づいたリサは、
褒め言葉だらけの記事だと言って
今日のタブロイド紙を差し出しました。
大公妃の名前が載せられた記事を見ても
見ないふりをして、
何とかエルナの目につかないように
努力してきた過去とは
全く違う態度でした。
病室の窓際に座って
日光浴をしていたエルナは、
リサを見て、びっくりして立ち上がり、
そんなに激しく動いてはダメだと
注意しました。
しかし、リサは、
自分は、もう大丈夫。片足でも
走れるかもしれないと返事をすると
上手に松葉杖をついて
エルナのそばに近寄りました。
大公妃を救った功績を
認められたおかげで、
宮殿のような病室を一人で使う贅沢を
享受できるようになりましたが、
リサは一日の大半を、ここで
エルナと一緒に過ごしていました。
エルナは恐怖と好奇心が
入り混じった目で、
リサが差し出した新聞の一面を
見下ろしました。
レチェンの聖女、
毒キノコの呪いを解く。
やや顔が熱くなるような
仰々しい見出しの下には、
シュベリン大公夫妻の
結婚記念写真が載っていました。
エルナは、用心深く
新聞を受け取りました。
その記事は、
列車事故の中で咲いた大公夫妻の愛を
騒がしく称えていました。
妻を救うために
危険な事故現場を駆け回った王子と
負傷した体で
他の人々を献身的に世話した王子妃。
その二人の涙の再会の瞬間を語る
タブロイド紙の記事は、
よく書かれた一編の恋愛小説と比べても
遜色ありませんでした。
いつものように、
販売部数を上げるための
刺激的な嘘が
添えられているという点は
問題でしたが。
ラルスの魔女の呪いにかかり
毒キノコになった王子を
呪いから解き放ったのは
聖女のような妻の愛のおかげだと
言っても過言ではない。
その愛に救われた王子が
妻に捧げる愛は、
今や全レチェン人の胸を熱くする
一編の詩となった。
その幕舎にいた、
ある情報提供者の証言によると、
あの日の朝、
劇的な再会を果たした大公夫婦は
熱いキスで、
その愛を証明して見せたという。
その激情の瞬間は、
まるで、最も劇的で美しいオペラの
ワンシーンのように
見る人たちの心の琴線に触れた。
最後の段落を読んでいたエルナは
真顔で新聞を下ろしました。
記事は、その幕舎で
大公夫妻が交わしたキスを
詳しく説明することで、
大円団を迎えていました。
とても両目を開けて
見る気にもなれないほど、
口にするのも嫌らしい描写でした。
顔が真っ赤になったエルナは、
これ以上、言葉を続けられずに
身震いしました。
人目の多い場所で、
恥ずかしい姿を見せてしまったのは
事実だけれど、
抱擁がキスに誇張されて
伝えられるのは悔しいことでした。
リサは、
元々、このような新聞は嘘つきだ。
それでも大公妃が
どれだけ良い人なのか、
全レチェンが知ることができて
自分は本当に嬉しいと言うと、
リサは満足そうに笑い
新聞を片付けました。
この記事を見た病院の人たちが
どれほど、
大公妃を称賛していることか。
リサが肩をそびやかすほどでした。
もちろん、皆、最後の段落で
特に盛り上がっていましたが。
明日はシュベリンに戻るけれど、
今回は
良いスタートを切ることができて
本当に良かったと言うと、
リサはもっと真剣な顔で
エルナに向き合いました。
あの日以降、エルナとビョルンは、
公然と同じベッドで眠り、
目が覚める仲になったので、
大公妃の帰還は自然に決まりました。
エルナはリサに、
そのように目を合わせないでと
言いました。
恥ずかしくて
どうしていいか分からない
エルナを見ていたリサの口元に
意地悪な笑みが浮かびました。
気まずそうに知らんぷりをする
エルナの両頬は、いつの間にか
バラ色に染まっていました。
毒キノコ王子は悪いという
リサの見解は、
まだ変わっていませんでしたが、
エルナが幸せなら、そんなことは
どうでもいいことでした。
それに、その悪い王子も
少しは変わったような気がしました。
少なくとも、王子のステッキを
ライバルにしなければならない
悲しい境遇に
転落することはないだろうと
リサは確信しました。
あの朝、
めちゃくちゃになった格好で
妻を訪ねて来た
ビョルン王子が与えてくれた
信頼でした。
リサは、
こうなってしまった以上、
仕方がない。
自分は妃殿下を信じている。
強い方だからと言って
リサがにっこり笑って見せると、
エルナの口元にも
照れくさそうな笑みが広がりました。
ちょうどその時、
事故現場を視察に出かけた
ビョルン王子が戻って来て、
二人の会話は、そこで途切れました。
リサは、急いで松葉杖をついて
立ち上がり、
王子を迎えましたが、ビョルンは
そのくらいでいいと言うように
短く目配せすると
妻の隣の席に座りました。
リサが出て行こうとする瞬間、
突然、自分の名前を呼ぶ
王子の声が聞こえて来ました。
リサは、ビクッとし、頭を下げると
「はい、王子様」と返事をしました。
ビョルンは、
リサもシュベリン行きの
準備をするようにと、
まるで善を施すように、
当たり前の言葉をかけました。
リサは当惑して
王子の顔色を窺いました。
クビにしようとした者と、
クビにされるとは
夢にも思っていなかった者が
見つめ合っている間に、
午後の日差しは、
より鮮明な金色に染まりました。
曖昧な表情をしながらも
リサは礼儀正しく、
挨拶と返事をした後立ち去りました。
松葉杖の音が
扉の向こうに遠ざかると、
病室は再び静けさを取り戻しました。
テーブルに頬杖をついて座ったまま、
エルナの顔色を窺っていたビョルンは
列車に乗れそうかと、
少し心配そうに尋ねました。
昨日より、一段と
生き生きしているような
顔色ではあるけれど、
なかなか安心できませんでした。
シュべリンへの移動程度なら
無理がないだろうという
医師の言葉も同様でした。
もしもエルナが辛いなら、数日程度、
出発を延期できない理由は
ありませんでした。
エルナは「大丈夫」と
明るく笑って頷きました。
しかし、ビョルンは、
見物人が大勢集まってくるだろうと
告げると、落ち着いた目で
テーブルの端に置かれた
タブロイド紙を指し示しました。
見たところ、昨日の午後に配布された
新聞のようなので、今頃、
全レチェンが大公夫妻の恋愛史に
熱狂しているはずでした。
それは、
シュベリン中央駅のプラットフォームが
彼らを見に出てきた人たちで
溢れかえっているという意味でも
ありました。
しかし、エルナはビョルンを直視し
心の準備はできていると
大胆に答えました。
柔らかい午後の日差しに似た目で
エルナを見ていたビョルンの唇に
笑みが広がりました。
ビョルンが、
かなり自信がありそうだと指摘すると、
エルナは躊躇うことなく「はい」と答え
首をまっすぐにすると、
自分はシュベリン大公妃だからと
澄んだ声で、固い決意が込められた
言葉を告げました。
じっと妻を見つめていた
ビョルンは低い声で笑いました。
ああ、そうだったのかと言って
ビョルンは、
かなり真剣な態度で頷くと
新聞をチラッと見ながら、
レチェンの聖女でもあるしと
茶目っ気が含まれた言葉を
付け加えました。
顔を赤らめながらも、エルナは
その、きまり悪い賛辞を
拒否しませんでした。
とんでもない称賛ではあるけれど
それでも、心がウキウキするのは
仕方のないことでした。
エルナは悩んだ末に、
どうやら、この新聞は、
大切にしまっておいた方がいいと思って
それを自分の方へ引き寄せました。
嘘と誇張が含まれているけれど
大公妃の座に就いて以来、
初めて、きちんと認められ
称賛を受けた
記念すべき記事だからでした。
エルナは、
欲しい物があると言って、
若干の緊張と、
ときめきが込められた目で
ビョルンを見つめました。
彼は話してみろと言わんばかりに
頷きました。
エルナは、
クッキー缶が欲しいと告げました。
何気なくエルナを見ていたビョルンは
「・・・銀行を?」と聞き返すと
眉を少し顰めました。
後になって
その反問の意味を知ったエルナは
クッキーが入っている
本物のクッキー缶だと
慌てて否定しながら笑いました。
エルナは、
とてもきれいな新しいクッキー缶を
一つ買って欲しい。
過去とお別れした場所を
幸せで満たすことができるように
大切にしまっておくと、
口に出すのは、なんとなく恥ずかしい
その気持ちを、
彼を見つめる目に込めて伝えました。
ビョルンは喜んで頷き、
「そうするよ、エルナ」と言うと
優しく微笑み、ゆっくりと頭を下げ、
エルナの額にキスをしました。
それから鼻筋と頬を
ゆっくり通り過ぎた唇は、
すぐにエルナの唇に
そっと触れました。
エルナは短い悩んだ末、
もうすぐ会える
きれいな新しいクッキー缶のために
彼のキスを受け入れました。
シュベリン行きの列車は
早朝にカセン駅を出発しました。
レオニードは、さらに数日
カセンに滞在して、
事故を収拾することになったので、
大公夫妻だけが、
その列車に乗ることになりました。
夏の終わりに去った場所へ
冬の終わりに戻る道。
二人は優しい話と約束を
交わし続けました。
春が来たら、
二回目の新婚旅行へ行き、
一緒に良いものを見て、
散歩をして、素敵な所で
お茶を飲むことにしました。
夏になったら、
乗馬を習うことにしました。
エルナは馬が怖かったけれど、
数多くのトロフィーを集めてきた
乗馬の名手である夫と一緒なら
大丈夫そうでした。
秋になったら、
美しい紅葉に彩られたバーフォードを
訪問することにしました。
その頃に開かれる収穫祭の話を聞いた
バフォードの男は、
かなり真剣に興味を示したので、
エルナは笑いました。
商品が、
バフォードのワインであるという点が
特に気に入ったようでした。
そして、再び冬が訪れた時、
自分たちはどんな姿だろうか。
その季節を思い浮かべた頃、
列車はシュベリンに入りました。
ぎっしりと立ち並ぶ建物と
その間に張り巡らされた
クモの巣のような道を
数多くの通行人と馬車が
行き来していました。
以前と同じように混雑している
大都市の風景でしたが、
エルナは、
もう怖くありませんでした。
駅が近づくと、エルナは
脱いでいた手袋をはめました。
帽子をかぶり、久しぶりに着た
良いドレスの身なりも
丁寧に整えました。
その間に汽車が止まりました。
予想より、
はるかに多くの見物人が
プラットホームを
埋め尽くしていました。
ビョルンは立ち上がり
「準備はよろしいですか?」
と尋ねると、丁寧な身振りで
手を差し出しました。
エルナは返事の代わりに
喜んで、その手を握りました。
群衆が待ちに待っていた
主人公たちが姿を現すと、
プラットホームが
さらに騒がしくなりました。
もう少し近くで彼らを見るために
争いまで起こるほどでした。
「皆、下がって!」と
護衛たちの叫び声が
混雑したプラットホームに
響き渡りました。
その勢いに勝てなかった見物人たちが
少しずつ下がると、
ようやく、大公夫妻の通る道が
作られました。
彼らに短い挨拶をした王子は、
妻をエスコートして
その道を歩きました。
かすめるように
視線が届く人たちと交わす
目礼と微笑は、
いつものように巧みで、
悠然としていました。
妃殿下を
本当に愛しているようだ。
緊張しているのか
固まっている大公妃を、
懐に包み込んでいるような王子を
見る人たちの驚嘆の声が、
騒々しい歓声の間に広がりました。
「早く下がってください!」
大公夫婦が現れたという噂を
聞いて集まった人々まで加わると、
護衛たちの声は、
より一層高まりました。
その雲の群れのような人波を
じっと見つめていたビョルンは、
諦めのため息をついて足を止めました。
彼にもたれかかっていたエルナは
「ビョルン?」と尋ねると
首を傾げました。
妻の顔と混雑したプラットホームを
交互に見るビョルンの目が、
徐々に細くなって行きました。
短く悩んだ後、
ビョルンは返事の代わりに
妻を抱き上げました。
驚いた見物人たちのため息は、
ほどなくして、
熱烈な歓呼の声に変わりました。
狂った野郎だと
自嘲的な笑みを浮かべながらも
ビョルンは妻を抱きかかえて、
大股で人混みの中を
横切りました。
まともな頭では
到底できないようなことを
よくやっていると思うけれど、
気分は、それほど
悪くありませんでした。
どうせこの舞台の第2幕で
観客たちが望んでいるのは、
狂った恋に陥った王子なのだから
その願いを叶えてやらない理由は
ありませんでした。
そして、エルナ・デナイスタが
愛される妻だという
事実が証明されれば、
言うことなしだと思いました。
王子は妻を愛している。
いや、妻に夢中だ。
妻を宝物のように抱いた王子が
プラットホームを離れる頃になると、
その事実は、
既定事実化されていました。
美しい聖女のおかげで
呪いから解放された王子が
運命的な愛に陥った。
全レチェンが愛する童話が
さらに美しくなった瞬間でした。
馬車はスピードを上げて
橋を渡りました。
エルナはバラ色に染まった川から
ビョルンに視線を移すと、
あのような配慮は、
大公邸の人々の前では遠慮すると
言いました。
エルナは、駅での
めまいがしそうな記憶が蘇ると、
再び頬のあたりが火照りました。
前触れもなく、されたことに
どれほど戸惑ったことか。
危うく悲鳴をあげて
恥をかくところでした。
そのおかげでプラットホームを
少し楽に抜け出せたという事実を
否定することはできませんでしたが。
「淑女らしい姿に戻りたい」と
エルナはもう少し断固とした口調で
自分の意思を伝えました。
今さら品位を保ったところで、
過去の過ちは消えないけれど、
今日は、いつにも増して
完璧な淑女でありたいと思いました。
「ああ、そうですか」と
返事をしたビョルンは、静かな目で
エルナを見つめていましたが
フッと軽く笑い、
それなら、妃の意のままにと
言いました。
首を傾げているように見える
ビョルンの仕草は、
人をからかいながら、
とぼけているような話し方とは裏腹に
優雅でした。
かなり憎たらしい態度でしたが
エルナは反論しないことにしました。
落ち着いて優雅に、
いつでもどこでも淑女のようにという
呪文を繰り返しました。
そうしているうちに馬車は
シュべリン宮へと続く道に入りました。
馬車が止まり、扉が開くと、
「お帰りなさいませ、妃殿下
そして王子様」とフィツ夫人が
丁寧に挨拶をしました。
シュベリン宮の
すべての使用人を代表して
心からの歓迎の挨拶を伝えると言う
フィツ夫人は
目頭が赤く燃え上がっているものの
帰って来た女主人を迎える態度は
非の打ち所もなく優雅でした。
フィツ夫人と、
短く目で挨拶を交わしたビョルンは、
エルナをエスコートして
大公邸に入りました。
玄関ホールの両脇に並び、
待機中だった
シュベリン宮の使用人たちが
二人に向かって
一斉に頭を下げました。
エルナは、少し緊張して
息を殺しました。
それを感じたのか、
ビョルンは力を入れて
彼女の手を握ってくれました。
じっと彼を見上げる
エルナの目の色が深まりました。
「そうして、彼らは
いつまでも幸せに暮らしました。」
そのように完璧な結末が
存在しないことを、
今は、分かっていました。
時には苦しくて大変だろう。
また涙を流す瞬間も
きっと訪れるだろう。
それでも、幸せになれそうでした。
エルナは、にっこり微笑むことで
その確信を伝えました。
そして再び前を見つめると
華やかなシャンデリアの明かりが
煌めく世の中に、
再び愛することにした、美しい運命、
彼女の王子様と一緒に
軽やかな一歩を踏み出し始めました。
とうとう本編が
終わってしまいました(涙)
幼いころ、母親の離婚で
心を痛めたことはあったけれど
その後は、田舎の没落した男爵家で
醜い貴族社会の現実を知らないまま
大切に育てられた
世間知らずのエルナが、祖父の死で、
世間の荒波に
揉まれるようになってしまった。
それを、いつも救ってくれたのが
正真正銘の王子様。
その王子様と結婚できたけれど
彼女が夢見ていたような生活とは
ほど遠い現実。
一方、ビョルンは
駆け引きだらけの世間に
どっぷり浸り、
お金以外に正直なものはないと
思っていたところへ
純真無垢なエルナが登場し、
彼の気持ちは一気にエルナの傾く。
けれども、
二人が今まで住んでいた世界が
あまりにも違い過ぎて、
互いに相手が望んでいることが
理解できなくて、
ベッドを共にすること以外、
平行線だった二人。
しかし、身を切られるような
辛い経験を通して、二人は、
自分を包んでいた殻を破って、
今まで認められなかった
自分の感情を認め、
相手を理解できるようになった。
そしてエルナは、
自分の思い描いていた
「そうして、彼らは
いつまでも幸せに暮らしました」
という完璧な結末が存在しないことに
気づけた。
おそらく、ビョルンも
同じようなことを
考えているのではないかと思います。
このお話は、
精神的に未熟だったエルナとビョルンが
辛い経験を通して、自分を見つめ直し
真の大人へと成長するための過程を
描いたものだったのではないかと
思います。
フィツ夫人が涙を堪えながら
優雅な態度でエルナを迎えた姿に
泣けました。
フィツ夫人、バーデン男爵夫人、
アルセン公爵夫人の三人のおばあ様が
一番気になっていた孫たちの幸せを
見届け、安心できるようになって
本当に良かったと思います。
転生も魔法もないけれど、
ここまで、このお話に
夢中にさせてくださった作者様に
感謝です。
次回から外伝です。