991話 外伝100話 ラナムンがゲスターを殴りました。
◇勝手に戦え◇
「坊ちゃん!」と、カルドンは、
裂くような悲鳴を上げました。
ゲスターはフラフラして、
扉の取っ手に背中をぶつけると
その場に座り込みました。
その姿を見たカルドンは、
さらに恐くなり、
ラナムンを捕まえました。
そして、ラナムンに
落ち着くように。
殴らずに皇帝に話せばいいと
訴えました。
ラナムンは拳を握りしめて
ゲスターを見下ろしました。
カルドンは消え入りそうな声で
ラナムンを再び呼びました。
彼も、
他人の部屋に勝手に入って来て
狼藉を働いたゲスターを
殴ってやりたい気持ちは
やまやまでした。
しかし、そうでなくてもラナムンは
皇帝に目を付けられているので
ここでゲスターと喧嘩までして
怒られたら、
目を付けられるどころか、
憎まれるかもしれませんでした。
ラナムンは「分かった」と答えると
感情を抑えるために
後ろに退きました。
しかし、ゲスターは、
ラナムンが退いたにもかかわらず
腰を押さえたまま
立ち上がりませんでした。
これを見たカルドンはカッとなって
なぜ、仮病を使うのか。
うちの坊ちゃんは顔を殴ったけれど
お腹は殴っていないと叫びました。
それでもゲスターは、
腰をつかんだまま、
立ち上がりませんでした。
耐えかねたラナムンはカルドンに
奴を起こして外に追い払えと
指示しました。
ところが、カルドンが
ゲスターを起こそうとした瞬間、
ドアがバタンと開きました。
カルドンは、
素早く後ずさりしました。
扉の前に倒れていたゲスターも
扉ごと押し出されました。
扉を開けて入って来た人は、
なぜ扉が、よく開かないのかと
呟きながら入って来ましたが、
ゲスターを見て
驚いた表情になりました。
入って来たのは皇帝でした。
ラナムンの表情が曇りました。
まさか、ゲスターは、
皇帝が奴に付いて来るのを見て、
わざと挑発したのかと疑いました。
カルドンも似たような考えをして、
ラナムンを心配そうに見つめました。
ラティルは、ゲスターに、
どうしたのか、
どこか具合が悪いのかと尋ねながら
ゲスターを見るために
腰を曲げている間、ラナムンは
表情を熱心に管理しました。
ゲスターが先に、
自分の部屋で暴れたのだから大丈夫。
証拠も四方に散らばっているし・・・
と考えながら、
表情を整えていたラナムンは、
部屋の中を見回すや否や
額にしわを寄せました。
とんでもないことに、ゲスターが
めちゃくちゃにした部屋の中は
あっという間に、
原状に戻っていました。
一番最初に壊した高価な花瓶は、
確かに粉々になっていたのに、
今は元の姿で壁際にありました。
他の家具や装飾品も同様でした。
カルドンも、これに気づいて
「これは一体・・・」と
思わず、呟きました。
その間に皇帝は、ゲスターを起こして
立たせました。
ゲスターは、
皇帝に寄りかかりながら体を起こし、
扉の取っ手にぶつかった自分の背中を
片手で叩きました。
拳が背中に触れただけで
ズキズキしました。
その苦痛のおかげで、
ゲスターは、一段と、
悲しい目をすることができました。
彼が皇帝を見つめると、
彼女は驚いて、
ゲスターの腫れた頬を撫でながら
顔をどうしたのかと尋ねました。
ゲスターはラナムンを見ました。
「えっ?」
しかし、皇帝は
すぐには理解できませんでした。
ゲスターが再びラナムンを見ると
皇帝は、
ようやくラナムンを見ました。
彼は部屋の中を見回しながら
呆然としていましたが、
皇帝の視線に気づくと、
一歩遅れて、そちらを向きました。
しかし、ラナムンは
ゲスターの視線を
見ることができなかったため、
皇帝が、なぜ、自分を見つめるのか
すぐには気づきませんでした。
ラナムンが殴ったのかと、
皇帝があからさまに尋ねてから、
ラナムンは眉を顰めました。
ゲスターは「はい」と
痛々しく答えると
再び背中を叩きました。
頬は痛くなかったけれど、
背中は本当に痛みを感じました。
ラティルは
目をパチパチさせました。
ゲスターの言葉を
容易に信じられなかったからでした。
ラナムンは、誰かを殴る性格なのか。
よく侮辱はするけれど、
拳は、あまり使わないのではないかと
思いました。
それでも、一応、
聞いてみなければならないので、
ラティルは、
本当なのかと尋ねました。
ラナムンは沈んだ目で
ゲスターを睨みつけました。
しかし、答えませんでした。
ラティルは、それがもどかしくて
再び、尋ねると、
そばにいたカルドンは、
悔しさのあまり、
ゲスターが先に来て、
ラナムンを侮辱したと
前に出ました。
カルドンは、トゥーリのように、
あれこれ全てに乗り出す侍従では
ありませんでした。
本来なら、
彼は黙っていたはずでしたが、
今、ラナムンが、
あまりにもあっけなく追い込まれると
我慢することができませんでした。
ラティルは、
何て侮辱したのかと尋ねました。
カルドンは言葉ではなく
行動で侮辱したと答えました。
ラティルは、
どんな行動かと尋ねると、
カルドンは興奮しながら、
部屋の中をめちゃくちゃにしたと
答えましたが、
ラティルの当惑した目を見ると
自然に声が小さくなりました。
ラティルは、
部屋の中をチラッと見て、
部屋は大丈夫だけれどと
指摘しました。
カルドンは、一瞬、
涙が出るところでしたが、
ゲスターは、確かに
部屋の中をめちゃくちゃにした。
入って来るや否や
急に狼藉を働いた。
ところが、どういうわけか
皇帝が来るや否や、
元通りになったと弁明しました。
ラティルがゲスターを見ると、
彼はラティルの腕をつかんで
素早く首を振り、
自分が抗議しに来たのは事実だけれど
だからといって、人をむやみに
殴ってはいけないのではないかと
訴えました。
事がここまでになると、
ラナムンも、
我慢しているわけにはいかず、
一歩前に進みながら、
ゲスターが握っていない方の
ラティルの腕をつかみ、
賢明に判断を下して欲しい。
もし、このまま
ゲスターの狼藉を許してしまえば、
これから、奴が、
勝手に部屋を壊し回っても、
誰も統制できないだろうと
訴えました。
ゲスターも
ラティルの腕をつかんでいる
自分の手にさらに力を入れて、
ラナムンの話はおかしい。
証拠がないのに、
誰かが自分を殴って、
自分のせいだと言い張れば
自分のせいになるということなのかと
反論しました。
ラティルは、
腕を1本ずつ2人の男につかまれて
ひどく困惑しました。
ラナムンの言葉を聞けば
それが正しいと思えるし、
ゲスターの言葉を聞けば
それが正しいと思えました。
ラナムンの肩を持って
彼の言葉が正しいと言えば、
証拠もないのに、
ゲスターが狼藉を働いたと
認めることになる。
しかし、
ゲスターとラナムンの人柄と
普段の行跡を考えると
ゲスターの肩を持って
彼の言葉が正しいと言うには、
疑問を抱きました。
漠然とした気持ちは、
まもなく怒りに変わりました。
ラティルはピリピリしながら
力を入れて、2人の男が握った手を
同時にさっと取り出しました。
ラティルの力のせいで、
ラナムンとゲスターは
同時にフラフラしました。
ラティルは鼻息を荒くしながら
2人で勝手に戦えと怒鳴りました。
最近、ラティルは、
思ったよりゲスターが
性格が悪いことを知ったし、
同時に、上品で優雅なラナムンも
誰かに濡れ衣を着せることが
できる人であることを知りました。
ラティルは
扉の外に出て行きました。
皇帝が本当に出て行ってしまうと
残された3人の男は皆、慌てて
何の反応も見せませんでした。
そうするうちに、湖畔から
激しく水遊びをする音が聞こえて来ると
ゲスターが真っ先に気を取り直して
ラティルに付いて行きました。
彼は、ラナムンとカルドンを
振り向きさえしませんでした。
一瞬にして、2人だけになると、
ラナムンとカルドンは
呆れて何も言えませんでした。
しばらくしてカルドンは
頭を抱えながら、
あれは狂人ではないか。
急にどうしたのかと叫びました。
ラナムンは、
元々、ああだった。それでも以前は
隠そうと努力していたけれど、
もうそんな考えもなくなったようだと
答えました。
◇落ち込ませる言葉◇
ゲスターが、
すぐに反応できなかった間に、
ラティルの足が速過ぎたせいで、
すでに彼女は消えていました。
結局、ゲスターは、
通りすがりの宮廷人数人から、
皇帝が執務室の方へ
歩いて行ったことを
聞き出しました。
ゲスターが質問する時、
宮廷人たちは頭を下げたまま
目を合わせることが
できませんでした。
自分のイメージが
完全にめちゃくちゃになったと
ゲスターは、
内心、舌打ちしましたが、
今すぐ、ここで、
自分が善良だと主張しても
効果はないはずでした。
彼は返事を聞くだけで、
執務室に歩いて行きました。
執務室へと続く廊下に着くと、
ちょうど執務室の扉を開けて
タッシールが出て来ました。
彼は扉を閉めると、
ゲスターを見るや否やにっこり笑い、
すぐにゲスターの前に近づいて、
「ウサギ様、
陛下に会いに来られたのか」と
尋ねました。
ゲスターは、タッシールを無視して
行こうとしましたが、
立ち止まりました。
ゲスターに、
冷ややかに見つめられると、
タッシールは、あっという表情で
自分の唇を叩きながら、
「おや、狐様だったか?」と
言い直しました。
気分を害したゲスターは
答えませんでしたが、
タッシールは気にせず
彼の肩を叩くと、
濡れ衣を晴らしたことに対して
お祝いの言葉を述べ、
ゲスターに
奢らなければならないと
言いました。
それから返事も聞かずに
行ってしまいました。
ゲスターは、その後ろ姿を見て、
口の中の肉を噛みました。
タッシールは、
別に何も言って行かなかったのに
不思議なことに、
彼と数言交えた途端、
気分が急激に沈みました。
ラティルに会いに来たのに、
執務室の中に
入ることもできないほどでした。
ゲスターは、
しばらく考えてみた結果、
自分が怒った理由に気づきました。
奴の頭なら、自分が
濡れ衣を着せられたということと
百花が
真犯人の可能性が高いということを
分かっていただろう。
それなのに、黙って見ていながら、
いい子ぶっていた。
ゲスターも、
これが憶測だということは
知っていました。
しかし、だからといって
気分が悪くならないわけでも
ありませんでした。
彼は首を横に振ると、
執務室の扉を叩きました。
◇形勢逆転◇
ある日、ゲスターは長椅子に腰掛け
窓を開けっ放しにして、
ゆっくりと扇で扇いでいました。
細長い箱を持って
部屋の中に入って来たトゥーリは
ゲスターが、くつろぐ姿を見て
微笑みました。
ゲスターは、
視線を感じて振り返りましたが、
トゥーリと目が合うと、
照れくさそうに、
「なぜ?」と尋ねました。
トゥーリは、
別宮から帰って来たばかりの頃は
実は少し悔しかった。
確かに坊ちゃんは
濡れ衣を着せられたのに、
皇帝だけが、それを信じて、
他の人たちは信じなかった。
今も信じていないと答えました。
ゲスターは、
今は、それでも悔しくないのかと
尋ねました。
トゥーリが、力強く
「はい」と答えると、
ゲスターはからかうように笑い
随分、寛大になったと指摘しました。
トゥーリは、
持って来た細長い箱を
ゲスターに差し出すと、
後ろで、ひそひそ話していても
どうってことない。
表面では、坊ちゃんに
よく見せようとしていると
言いました。
ゲスターは箱を膝に置いて
蓋を開けました。
淡いピンク色の宝石が
あちこちに埋め込まれ、
キラキラして華やかな
赤ちゃんのガラガラが
入っていました。
ゲスターは笑いを爆発させて
箱の蓋を閉めました。
そして、誰がこれをくれたのかと
尋ねました。
トゥーリは、
ブレタ伯爵家だと答えました。
ゲスターは、
取っておけと指示し、
箱を再び閉めて、
トゥーリに渡しました。
トゥーリはニヤニヤ笑いながら
今頃、ラナムンの心中は、
とんでもないことになっている。
みんなの話では、
ラナムンが可哀想になったと
言いながらも、
彼によく見せようとしないと
言って、嘲笑いました。
◇クラインの怒り◇
トゥーリの推測通り、
最近、ラナムンは
とても落ち込んでいました。
しかし、機嫌の悪い側室は
ラナムンだけではありませんでした。
人々は知らなかったけれど、
クラインもラナムンと同じくらい
傷ついていました。
クラインは、
誰かが、またゲスターに
プレゼントを送ったと聞くと
怒って、クッションまで
投げつけました。
バニルは、
気にしないように。
代わりにカリセン皇帝が
送ってくる贈り物は、
皇子だけが受け取ると、
素早く優しい声で宥めましたが、
何の役にも立ちませんでした。
クラインは、
兄がくれる贈り物と
他人がくれる贈り物は同じなのかと
抗議すると、アクシアンは、
賄賂が欲しいのかと、
クラインを煽ったので、
バニルは急いで彼を追い出しました。
しかし、クラインは、
すでに、もう一度、クッションを
投げているところでした。
本当にひどい。ゲスターの奴が
避妊薬を寄こしたせいで
6番目の赤ちゃんが、
自分の赤ちゃんではなくなった。
そうでなければ、
自分の赤ちゃんだったのにと
クラインが文句を言うと、
バニルは、
必ずしもそうではないと
反論しました。
しかし、クラインは、
それなのに、なぜ誰も
自分を慰めようとしないし、
謝らないのか。
なぜ、ラナムンだけが
被害者みたいな雰囲気なのか。
自分は、避妊薬を飲まなくても
父親になる確率はなかったという
意味なのかと怒鳴りました。
皇帝は、
ゲスターが犯人ではなかったと
言いましたが、
クラインは信じませんでした。
彼は、すでにゲスターが犯人だと
固く信じていました。
バニルは、
皇子を安心させる言葉が
全く、思い浮かばず、
クラインがクッションを投げる度に
静かに拾ってくるだけでした。
これを何回繰り返したのか。
クラインは、
クッションを投げなくなりました。
彼は、
ダメだ。 ここで、こうしていても
悔しくなるだけ。
自分もあいつに危害を加えると
言いました。
バニルは、
何年も、静かに
避妊薬を使ったのを見てれば
見た目と性格が違うのが
明らかだと反対しました。
しかし、クラインは
バレないように仕返しをすればいい。
バレない方法はいくらでもある。
自分は、どんな手を使ってでも、
必ず奴から子供を奪ってやると
宣言しました。
状況証拠しかないのに、
アトラクシー公爵が、
ゲスターが避妊薬を使ったと
濡れ衣を着せたことを、
今回、ゲスターは利用したのですね。
ゲスターは、
ラティルと言い争った時に、
自分もギルゴールのように
狼藉を働いてみると言いましたが、
ゲスターは黒魔術師なので
ギルゴールと違って、
物を壊しても、元に戻すことができる。
だから、ラナムンとカルドンが
ゲスターの悪行について訴えても
確固たる証拠がない。
以前のラティルなら、
無条件にゲスターを
信じたかもしれませんが、
先のゲスターの発言を
覚えているかもしれないし、
ゲスターの本性を知った今は
さすがに、
それはないのだと思います。
ゲスターを恐れることなく
攻撃できるのはクラインだけ。
クラインに期待します。