122話 エルナがいなくなってから、ビョルンは不機嫌なままです。
午後遅く、
フィツ夫人の執務室を訪れたリサは
いつも浮かない顔をしていたけれど
なぜか、今日は
元気いっぱいに見えました。
フィツ夫人はリサに
どうしたのかと尋ねました。
彼女は、少しの間。
もじもじしていましたが、
彼女の机の前に一歩近づくと、
自分はこの辺で、
シュベリン宮を離れるつもりだと
打ち明けました。
フィツ夫人は目を細め、
それはどういう意味かと尋ねました。
彼女の厳粛な視線に向き合うと
リサは歯が痺れてきましたが
退くことなく、
バーデン家に行きたいと答えました。
フィツ夫人は、
大公妃の意向は
そうではないはずだと反論しました。
リサはすぐに赤くなった目頭を
手の甲でこすりました。
エルナから手紙が来たのは、
一夜にして
彼女が消えてしまってから
10日ほど経った時でした。
エルナは、
何も言わずに去ってしまったことを
謝りながら、その日にできなかった
別れの挨拶と、
一緒に時間を過ごせたことへの
感謝の気持ちを伝えて来ました。
そして、自分のいない大公邸に
残っているのが難しければ、
他の良い家門の働き口を
紹介してもらえるように、
フィツ夫人に
頼んでおくという言葉も
書かれていました。
その手紙をもらった日、リサは、
皆の予想に反して、エルナは
本当に永遠に戻らないと
決心をしたのかもしれないと
思いました。
それでもまさかと思って
待っていましたが、
もうこれ以上は無理でした。
フィツ夫人は、
ここに残りたくないのなら、
太公妃の頼み通り、
他の家門に紹介状を書くと
言いましたが、
リサは断固として拒否し、
バーデン家に行くことを
許して欲しいと訴えました。
フィツ夫人は、
太公妃の命令を破って、
勝手に行くのかと非難しましたが、
リサはそれを否定し、
ここに、確かに
また会おうと書かれていると
返事をすると、
急いでフィツ夫人に
手に握っていた手紙を
差し出しました。
何度も読み返して、
乾いた涙の跡までついている
手紙でしたが、
読むのに支障はありませんでした。
しかし、手紙を注意深く読んだ
フィツ夫人の唇から
虚しい笑いが出ました。
すべてが片付いたら、再び会って、
きちんとした感謝と謝罪を
伝えるという挨拶でした。
これを根拠に訴えてくる
リサに呆れながらも、
一方では気の毒に思い、
彼女は、低いため息を吐きました。
確かに、エルナは、決して
心にない挨拶をする人では
ありませんでした。
現時点で、まだ、その片付けが
終わっていないけれど、
リサが無理を言っていると
済ますことはできませんでした。
立ち上がったフィツ夫人は、
庭が見下ろせる窓に
向かい合いました。
ある程度、心が落ち着けば、
戻ってくるという楽観論は、
もうやめるべき時が来たようでした。
自分とリサへ宛てた
エルナの手紙のどこにも
ビョルンの名前はありませんでした。
ここのことを気にしている様子を
見つけてみるのも大変でした。
ただ淡々と自分の意思を伝え、
了解を求める態度は
エルナらしく気品があり、
一方では頑固でした。
フィツ夫人は
額を押さえながら振り向くと、
リサは切実な目で
自分を見つめていました。
悩んでいたフィツ夫人は
そうしてもいいと許可しました。
リサは嬉しくて
どうしていいかわからなくなり
何度もお礼を言いました。
しかし、フィツ夫人は
リサにやってもらうことが
一つあると条件を出しました。
これ以上、王子を
傍観してはいけないようでした。
会議が終わると、
銀行の理事たちは、先を争って
書斎を抜け出しました。
まるで逃げるようでしたが、
彼らは気にしませんでした。
ビョルンは、ソファーに座り、
その光景をじっと見つめました。
書斎の扉が閉まると、
ビョルンは立ち上がって
窓の前に近づき、退屈そうな目で
夕方の風景を見つめました。
いつの間にか
冬に近づいているという事実を
思い出すと、
ため息混じりの失笑が漏れました。
不埒な債務不履行者が
夜逃げをした後に生じた
些細な習慣の一つでした。
窓に背を向けたビョルンは、
暖炉の前に近づきました。
その視線は当たり前のように
マントルピースの上にかかっている
パーベル・ロアーの描いた
シュベリン大公夫妻の肖像画に
向けられました。
ビョルンは腕を組んで、
その血なまぐさい画家の
指先から咲いた
自分の花を見ました。
微かな笑みを浮かべた
エルナ·ドナイスタは美しい。
満足しながらも
苛立たしい事実でした。
肖像画を書斎にかけると決めたのは
ビョルンでした。
パーベル・ロアーのものを
エルナの空間に
置きたくなかったためでした。
もちろん、大公邸には
絵をかける多くの場所が
ありましたが、
書斎を選んだのは、
毎日、見ることができて、
過度に私的な場所ではなく
外部の人々に
適切な誇示をするにも
適当だったからでした。
もう愛していない夫。
絵の中の純真無垢な顔の上に
その不埒な手紙が浮かび上がり
ビョルンの口元に浮かんだ
嘲笑を色濃くしました。
やはり、鹿は危ない。
油断して、
首筋をかみちぎられた自分の姿が、
改めておかしいと思いました。
1ヶ月と1週間。
フィツ夫人と地獄の番人には
手紙を書いて来たようだけれど、
エルナは一度もビョルンには
連絡をして来ませんでした。
そのようなやり方で
好奇心を刺激しようとする手は、
あまりにも露骨で明白だと
思いました。
依然として見え透いた行動をする
美しい妻を見るビョルンの目つきが
次第に細くなっていきました。
いずれにせよ、当分はエルナを
バーデン家に置く意向もなくは
ありませんでした。
あのように夜逃げをしたのは
荒唐無稽だけれど、
彼女が実家に
留まっているという事実は
問題になりませんでした。
その期間が、あまりにも
長くなってはいるけれど。
その時、
フィツ夫人がやって来て
リサをバーデン家に
送ることにしたと告げました。
最近になって、
さらに薄っぺらになった
王子の忍耐心を
よく知っているフィツ夫人は、
明確な本論から伝えました。
ビョルンは、
少ししかめっ面をして
リサとは、あのメイドのことかと
尋ねました。
フィツ夫人は
大公妃のメイドだと答えました。
ビョルンにとって、
世の中が崩れ落ちたかのように、
沈鬱な顔で屋敷の中を歩きながら
心を乱していたメイド一人が
消えることぐらい、
大したことないことでした。
ビョルンは、
そうでなくてもクビにしようかと
思っていたので、良かったと言うと
フィツ夫人は、
リサは依然としてシュベリン宮の人で
大公妃を補佐する仕事を
引き受けたメイドなので、
大公妃がいる所に送るだけ。
大公邸の人という事実が
変わるわけではない。
大公妃が王子の妻である限りはと
最後の言葉に特に力を入れました。
少ししかめっ面をして
考え込んでいたビョルンは
軽い笑みを浮かべながら席を立つと
余計なことをしたと言いました。
そして、
ジャケットとコートを羽織って
タイの形を整えました。
フィツ夫人は、
そんなことはないと返事をしました。
そして、書斎を出る
ビョルンの後を追いながら、
バーデン家にいる大公妃が
どのように過ごしているか、
定期的に手紙で知らせてくるよう
リサに指示し、
彼女も同意したと話しました。
フィツ夫人の言葉に
ビョルンの足が止まると、
一瞬、廊下が静まり返りました。
フィツ夫人は、ビョルンが、
大公妃のことが
とても気になっているだろうし
心配しているだろうからと
言いました。
じっと彼女を見つめる
ビョルンの目つきは、
これといった感情もなく
落ち着いていました。
ビョルンは、
本当に余計なことをした。
自分の足で戻って来るので、
大げさにする必要はないと
言いました。
老婆心に満ちた
乳母の目を見つめながら
笑ったビョルンは、
再び歩き始めました。
これ以上の反論を許さないという
明確な意思を読み取ったフィツ夫人は
唇を固く閉じたまま
王子を見送りました。
ビョルンは馬車に乗る前に
もう一度軽く微笑むと、
遅くなるので待たないでと
頼みました。
王子を乗せた馬車が遠ざかると、
フィツ夫人は、
複雑なため息をついて
背を向けました。
どうやらリサの出発を
急がせなければならないようでした。
誰があいつを呼び出したんだ?
という、殺伐とした質問が
浮かび上がっている視線が
カードの上を
行ったり来たりしました。
最も有力な容疑者として
名指しされたペーターは眉を顰め
自分ではない。彼が勝手に来たと、
どうしても叫ぶことができない
その言葉の代わりに、
咳払いを繰り返しました。
ゲームの勝者は
ビョルン·ドナイスタ。
シュベリン社交クラブの
カードルームの虐殺者でした。
しかし、チップを全て
持って行くことになっても
ビョルンは、
あまり嬉しそうではなく、
むしろ、かなり気に障る表情を
しているという事実が、
敗北者たちをさらに
惨憺たる気持ちにさせました。
結婚をした後は
少なくなったけれど、
大公妃が療養に行った後は
王室の毒キノコ時代に劣らず
よく現れ、
掛け金を巻き上げていました。
その時代には、
少なくとも適当に手加減する方法を
知っていたようだけれど、
最近は、狂犬のように飛びかかり
カード盤を荒らしまくっていました。
また雰囲気は
ひどく殺伐としていて、
冗談の一言を投げたりするのも
慎重にならざるを得ないのに
無駄に真面目に現れて
ひどくイライラさせられ、
有り金を叩くこととなり、
まさに気が狂いそうでした。
ビョルンが席を立つと、
皆の顔に喜びの色が浮かびました。
思う存分狩りをして
満腹になった狼が悠々と立ち去ると、
あちこちで
鬱憤に満ちた言葉が溢れでました。
レナードは
ビョルンは欲求不満だ。
今、できない鬱憤を
自分たちに吐き出していると
文句を言いました。
ペーターは、
まさかビョルンが
そんなことをすると思うのか。
自分はできなくても、ここで
腹いせのようなことはしない
と言いました。
そして、その場にいた1人が
大公妃は
いつ戻ってくるのか。
まさか今年を越すことは
ないだろう?と尋ねると、
くすくす笑っていた人々が
一斉に粛然となりました。
縁起でもないことを言うな。
そんなことになったら
乞食になると、
悲鳴に近いペーターの絶叫に
皆は目で同意しました。
大公妃の早期帰還。
シュベリン宮殿と同じくらい
社交クラブでも、
皆が熱烈に望んでいました。
冬を目前に控えたタラ広場の夜は、
ひんやりと静まり返っていました。
御者が来ることになっている時間まで
まだ30分余り残っていたので
ビョルンは稼働を止めた噴水台の端に
腰を下ろしました。
ビョルンは
空を見上げました。
星が美しい夜、
ビョルンは、
その名前を思い出しました。
エルナ。白い息と共に
その名が流れ出ました。
エルナ。 不埒な私の妻、エルナ。
負け知らずのビョルン・ドナイスタ。
グレディスから屈辱を受けても
それを自分と自国に有利になるように
うまく事を運んだビョルン。
だから彼は、当然のごとく、
エルナが戻って来ると
信じているけれど、人の心は、
そう単純なものではないことを
いつ、知るようになるのでしょうか。
けれども、彼のイライラ度が
増しているのは、心のどこかで、
もうエルナが
戻ってこないかもしれないと
不安がっているのかもしれません。
フィツ夫人が危機意識を抱いて
対処しているのが救いです。