55話 レイラはマティアスの車に乗せられました。
カバンとコートを抱きしめたまま
口をギュッと閉じていたレイラは
この道は、
アルビスへ向かう道ではないようだと
ついに口を開きました。
車はカルスバル都心の繁華街に
向かっていました。
レイラはエバースに
この道は・・・と話しかけましたが
マティアスは、その言葉を遮り
レイラに、
責任を取ると言ったではないかと
言いました。
怒りのために恐怖を忘れたレイラは
避けることなく
公爵の目に向き合いました。
そして「責任」という単語に
妙な力を加える彼を見て、
思わずスカートの裾をつかみました。
マティアスは、
責任を負うべきことをしたのだから、
当然、ダメにした服まで
責任を負わなければならないと
言いました。
レイラは、
その必要はないと拒否しました。
しかし、マティアスは、
その理由を尋ね、
まだ自分の過ちが足りないと思うのかと
尋ねました。
前の座席に、
運転手と随行人がいるにもかかわらず
マティアスは
気兼ねをしませんでした。
レイラは反論することができず
深呼吸をしました。
インクを消そうとして
無駄な努力をした手のあちこちに
赤い染みが残っていました。
それが、まるで、
めちゃくちゃになった
自分の気持ちのようで、
レイラは腹立たしさと恥ずかしさを
覚えました。
いっそのこと、
黙って捨てるべきだった。
贈り物を返すことで、
公爵との不思議な関係を
終わらせることができると
思っていた自分が
あまりにも情けなくなりました。
レイラは痛くなるほど強く
内頬を嚙みながら、
この恥ずかしくて、不快で、
息が詰まりそうで、
時には泣き叫びたくなる、この感情を
何と呼べばいいのだろうかと
考えました。
レイラは、
まるでその答えを求めるかのように
マティアスを見ました。
彼の視線もレイラに向かっていました。
その表情のない顔の後ろに
暗い灰色の都市の風景と光が
流れました。
なぜかマティアスの目つきも
ぼんやりとしているように見える頃
高級店が密集した通りに
車が止まりました。
運転手と随行人は二人を残して
車から降りました。
一瞬、空気が重くなったような気分に
レイラの肩が自然に縮こまりました。
レイラは傘を持ち、
この辺で失礼すると言って、
車のドアに手をかけようとしましたが
その前に、震える小さな手を
マティアスが握りました。
驚いたレイラは、もがきましたが、
マティアスは、
あまり力を入れることなく、
レイラの抵抗を完全に抑え、
どこに行くのかと尋ねました。
レイラは、
服なんか要らない。 家に帰ると
答えました。
マティアスは、
レイラが我儘だと指摘すると
痛いほど強く手首を握っていた手を
少し緩めて、笑いました。
そして、ビル・レマーさんのことは
考えないのかと尋ねました。
公爵が吐いた思いがけない名前に
レイラはもがくのを止めました。
マティアスは、
君がこんな姿で現れたら、
レマーさんは、
どれだけ心を痛めるだろうかと
言いました。
レイラは、
自分にこんなことをした張本人が
ビルおじさんのことを
心配しているのかと尋ねました。
マティアスは、
君とは別に、レマーさんは、
うちで何十年も働いた庭師だからと
答えました。
そして、マティアスが
力を入れて手首を引っ張ると、
レイラは、どうすることもできず
マティアスの息が届くほどの距離まで
近づきました。
マティアスは、
レマーさんにどうしたのかと聞かれたら
上手く説明する自信はあるのかと
尋ねました。
レイラは「はい、いくらでも」と
答えると、
レイラは体を放そうとしましたが、
マティアスは、もう一方の手で
彼女の頬を包み込みました。
そして、
自分は責任を負うべきことをしたので
君に責任を負うと言いました。
レイラが、彼の視線を
避けようとすればするほど、
マティアスは執拗に、
その視線を追いました。
彼は、
君に新しい服を買って着せて、
完全な姿で、
レマーさんの懐に送り返すのが
今日の自分の責任だと主張しました。
しかし、レイラは、
自分は嫌なので放してと
抵抗しました。
マティアスは、
よく考えてみるように。
素直に自分の謝罪を受け入れて
服を弁償してもらう状況は
常識的だけれど、
君がこんなに反抗して意地を張ったら
かなり変に見えないかと尋ねると
しかめっ面で窓の外を見ました。
運転手と随行人は背を向けて立ったまま
待機していましたが、
だからといって、車の中のこの騒ぎを
察知できないはずが
ありませんでした。
そして、マティアスが
反抗している愛人みたいな感じだと
あまりにも低級な冗談を言うと、
レイラの顔は、
不意に頬でも殴られた人のように
なりました。
軽く笑ったマティアスは、
レイラを放し、窓ガラスを叩くと、
マーク・エバースが
後部座席のドアを開けました。
レイラは逃げるように
車から降りました。
車の中に、カバンとコートが
残っているのを確認したマティアスは
手を振ってマーク・エバースを呼び、
短い指示事項を伝えました。
彼はすぐに理解し、
すぐに再びドアが閉まりました。
車に背を向けたレイラは、
運転手の傘の下で、身を縮めて
体を震わせていました。
マティアスの目が
徐々に細くなっていく間に、
その姿を見守っていた
マーク・エバースが
自分のコートを脱ぎました。
マティアスは、
再びノックするように車窓を叩くと
随行人は、
半分脱いだコートを急いで着た後、
ドアを開けました。
マティアスは命令の代わりに、
脱いでおいた自分のコートを
渡しました。
随行人は問い返すことなく
それを受け取りました。
再びドアが閉まると、
マティアスは曇った窓越しに
レイラを見ました。
マーク・エバースは、
震えるレイラの肩を
マティアスのコートで包み込みました。
半分魂が抜けたレイラは、
その服がどこから来たのかさえ
意識していないようでした。
まもなく運転手が戻り、
車が動き出しました。
レイラはマティアスのコートの襟を
しっかりと握ったまま、
随行人に付いて
洋装店の中に入りました。
その後ろ姿をマティアスは、
長い間、見つめました。
マーク・エバースが向かっている所が
昨年の夏、クロディーヌに捕まって
お茶を飲んだ、
華麗なホテルの入口だということを
知ったレイラは足を止めて、
そこへ行く理由を尋ねました。
マーク・エバースは微笑みながら
ご主人様の命令だ。
謝罪の意味を込めて、ルウェリン嬢に
お茶を一杯ご馳走した後、
アルビスに戻ると話していたと
説明しました。
レイラは、
お詫びはこの服で十分だと言いましたが
マーク・エバースは、
それは、自分が判断することではない。
ルウェリンさんも知っている通り
自分は、
ご主人様の命令に従うだけだと言うと
少し困惑した表情でレイラを見ました。
これ以上、
意地を張れなくなったレイラは、
力のない足取りで彼に従いました。
ホテルのロビーに入ると、
マーク・エバースは、
実はご主人様も、
ルウェリンさんのように、
とても小さくてきれいな鳥を
飼っていると、いきなり、
とんでもないことを言い出しました。
レイラは信じられなくて
眉を顰めました。
美しい鳥たちの虐殺者が鳥を飼うなんて
これ以上の変な言葉はなさそうでした。
レイラは悩みに悩んだ末、
「狩猟用ですか?」と
真剣に尋ねました。
その質問にマーク・エバースは呆然とし
主人のために釈明をしたかったものの
彼らはいつの間にか
ティールームの前に近づいていました。
マティアスは、
雨が降るテラスが見える窓際の席に
座っていました。
レイラをそこに案内した随行人は、
退きました。
マティアスは、
ぽつんと立っているレイラに
座るよう命令しました。
人々が、チラチラ見始めると
レイラは、渋々、
彼の向かいに座りました。
コートを脱ぐと、
青緑色のベルベットのワンピースが
現れました。
肩に届くほどの広いレースの襟は
雪のように真白でした。
マティアスは、
前立てを飾っている
真珠のボタンに沿って
ゆっくり下を向きました。
ストッキングと靴もすべて新品でした。
先程、
前世紀の修道服のようなものを
着ていた時より、
ずっと良い姿に満足しました。
洋装店で髪もいじってくれたのか、
一段と自然で優雅に見えました。
まもなく、レイラの前にも
カップとケーキとお菓子が
置かれました。
再びカップを手にしたマティアスは
「食べて」と命令しました。
レイラは身じろぎもせず、
じっと彼を睨みつけました。
少しも怖くないその目を
嬉しそうに見ていたマティアスは、
食べさせてあげなければ
いけないのだろうか。
望むなら、そこまで責任を持つと
言うと、椅子の奥深くに
寄りかかっていた背中を立てました。
レイラは、
急いでフォークを握りました。
そして、淡いピンク色のクリームが
塗られたケーキを、
ちびちび食べました。
甘い物が好きなようでした。
もぐもぐさせている唇と頬を
じっと見守っていたマティアスは
何が好きなのかと尋ねました。
些細なことを知ると、
他のことが気になりました。
レイラは彼の目をじっと見つめながら
公爵様の前で、
無理に食べなければならないものを
除いた全てが好きになりそうだと
答えました。
大胆不敵な表情をしているのに
声はひどく震えていました。
マティアスは笑いを噴き出しました。
彼は、
自分の興味を刺激したくなければ
方法を変えてみたらどうか。
君がこのように無愛想に振る舞うのが
面白いと言うと、テーブルの方へ
上半身を斜めに傾けました。
そして、こんなに面白いと
気が狂いそうだと、
囁くように言いました。
目をパチパチさせていたレイラは
彼が近づいてきた分だけ、
後ろに下がり、椅子の背もたれに
体を密着させました。
クリームのついたフォークは
依然として手に持ったままでした。
マティアスは、
面白くなくなるように、
いっそのこと、おとなしくした方が
いいのではないかと提案しました。
そして、下手をすると、レイラが
椅子から転げ落ちそうなので、
マティアスは、
この辺で身を引きました。
レイラは久しぶりに
フォークを下ろしました。
ナプキンで唇を擦っている間に
頬が赤く染まりました。
マティアスは、
再び、何が好きかと尋ねました。
レイラは、
特に食べ物は選ばないと、
おとなしく答えました。
自分の好きなように言い返したい衝動を
抑えようと努力する姿は
かなり見ごたえがありました。
「そう?いい子だね」という
マティアスの言葉に、レイラは
再びかっとなりながらも、
ぐっと堪えました。
しかし、その感情を
なかなか隠すことのできない瞳は、
キラキラ輝いていました。
一度、別の場所でも、
そうしてみないかと、
喉元まで上がって来た言葉を
マティアスはコーヒーと一緒に
飲み込みました。
気圧されている姿が気になったけれど
この姿を他のすべての者たちと、
分かち合いたくありませんでした。
おそらくビル・レマーさえ知らない
レイラ・ルウェリンの本当の姿を
知っている唯一の人が
自分かもしれないと思うと、
妙な高揚感がありました。
面白くなくなろうと決心したのか、
お茶を飲む間ずっと
レイラはおとなしくしていました。
聞かれたら聞くままに答えて、
素直に食べていましたが、
その一方で、諦めきれずに、
不満そうな目つきで、
マティアスをチラチラ見ました。
時には頬を赤らめ、
また時には、クリームのついた唇を
もぐもぐさせながら。
過ちを犯して
得た時間だという気がすると、
マティアスは虚しくなり、
失笑を漏らしました。
壊さないと与えられない。
壊さないと手に入らないなんて
なんと滑稽なことだろうと
思いました。
しかし、しばらく
しかめっ面をしていた顔に、
すぐに静かな笑みが戻って来ました。
じっとレイラを凝視する
マティアスの瞳は、
奇妙に澄んだ光を帯びていました。
おとなしくなっても
依然として彼を狂わせる女が
その目に湛えられていました。
それならレイラ。何を壊したら
君を手に入れられるだろうか。
深く考え込んでいたマティアスの頭が
斜めに傾きました。
暗くなった窓の向こうを
見ていたレイラが、
彼に、まっすぐ視線を向けました。
唯一知っているのは、レイラの
美しいエメラルド色の目でした。
レイラは、
万年筆を捨てれば良かったと
思ったけれど、
ビルおじさんからもらった
古い道具カバンも
未だに捨てられないレイラが
高級な万年筆を
捨てられるわけがなかったと思います。
かといって、
使わずに机の中にしまっておくことも
できなかったので、
レイラにできる最善の方法が、
マティアスに、万年筆を
返すことだったのだと思います。
けれども、逆手に取られてしまった。
レイラ以外の女性なら、
車の中でマティアスの隣に座り、
ドレスを買ってもらって、
ホテルでお茶をご馳走になったら
天にも上る気持ちになるでしょうけれど
レイラは喜ぶどころか
迷惑に思っているのが、マティアスには
歯がゆいのだと思います。
恋をしたことのないマティアスは
レイラを振り向かせるために
子供じみたことをしたり、
命令したり、
残酷なことをしたりもするけれど
レイラの手が、鳥のオーナメントに
届くようにさせてあげたり、
レイラに自分のコートをかけさせたりと
根は優しい人だと思います。
レイラは、
マティアスの悪い面だけではなく
良い面に気づいてあげると、
少しは二人の関係に
変化が訪れるかもしれません。