56話 結局、エルナはイルカを見ることができませんでした。
エルナは眩しい日差しの中で
目を開けました。
その光の中を漂う金色の埃を
ぼんやりと見つめ、
暖炉の薪が燃えていく音を
聞いている間に、
次第に意識が戻って来ました。
眠りに落ちた瞬間の記憶まで蘇ると
エルナはギョッとしながら
布団を抱き締めました。
横から聞こえて来る笑い声の方へ
視線を移すと、
ベッドヘッドに横たわるように
もたれかかって、
自分を見下ろしているビョルンが
見えました。
乱れた髪が真昼の日差しを受けて
金糸のように輝いていました。
だるそうな微笑を浮かべた顔も
そうでした。
エルナは、
一体どういうことなのか
よく分からなくて、
首元まで引き寄せた羽毛布団を
握りしめました
エルナは、ぼんやりとした目で
夫を見つめました。
ビョルンは、
あまり誠実ではない方だけれど
自分に与えられた責務に関しては
徹底していて、これもまた
その範疇に属することのようでした。
到底、これ以上はできないと
哀願したり、
気絶するように眠っても、
彼は自分の欲をすべて満たすまでは
退きませんでした。
そのため、エルナは、概して
最後をよく覚えていませんでした。
おとなしくペッグ夫人に
教わるべきだった。
師匠を間違って選んだと、
今となっては、
何の役にも立たなくなった後悔を
噛みしめながら、
エルナは夫の視線を避けました。
イルカが見られるという海域を
通り過ぎてしまってから、
随分、時間が経っただろう。
一緒にデッキに出るどころか、
この部屋の敷居すら越えていないのに
時計はいつのまにか
午後の時間を指していました。
このままでは、
またベッドの上で一日を
過ごすことになるかもしれない。
寝室を満たした静寂が
負担になったエルナは、勇気を出し、
ラルスまで、まだ随分かかるのかと
先に口を開きました。
読んでいた本を閉じて
ベッドの端に置いたビョルンは、
エルナの隣に肘枕をして横になり
あと三日くらい?と答えました。
そして、
シーツの上に乱れている髪の毛を
撫でていた手で布団の端に触れると
「ここから出発して、この航路で、
今はこの辺」と、
布団を引きずり下ろしながら
徐々に下に降りてきた人差し指が
左胸に乗りました。
そして、
「もう少し行って、
ラルスに停泊して」と言いながら
固くなった胸の先を
ゆっくりと回っていた指は、
再び下に動き出しました。
そして、
「また船に乗って、次の国へ。
そして次は・・・」と
言いかけている途中で、エルナは
もう言わなくても大丈夫だと
告げると、
いつの間にか臍まで下りて来た手を
急いでつかみました。
訳が分からないかのように
エルナを見つめるビョルンの顔は
驚くほど厚かましくて呑気でした。
ビョルンは、
妃が気になったのではないかと
尋ねましたが、エルナは、
こんな風に説明する必要はないと
答えました。
ビョルンは、その理由を尋ねると
妻の遠慮など
気にも留めないかのように
満足そうに微笑みながら、
自分はこの地図が気に入ったのにと
言いました。
何ということか。
驚愕したエルナの頭の中が
真っ白になった瞬間、
ノックの音が響きました。
使節団から
変更された報告書が送られて来た。
不躾だとは思うけれど、至急、検討を
お願いしたいとのことだという声が
ドアの向こうから聞こえると、
ビョルンは、
エルナの体を手探りしていた手を上げ
体を起こして座り、
投げ捨てられたナイトガウンを
ざっと羽織ると、
入るよう命令しました。
寝室のドアが開くと、エルナは驚き
急いで布団をかぶって
枕の山の間に顔を埋めました。
あまりにも恥ずかしくて
息がまともにできないのに、
ビョルンは、平気で
メイドが持って来た報告書を
受け取りました。
エルナは、
彼と、いくらかの会話を交わした
メイドが退いた後、
ようやく、真っ赤になった顔を
上げることができました。
書類を、むやみにめくっていた
ビョルンは、
お茶でも飲まないかと尋ねました。
エルナは、
少し恨みを込めた目で彼を見ながら
自分はそういうのが嫌だと
訴えました。
ビョルンが「そういうの?」と
聞き返すと、エルナは、
先程のように、こんな時に、
他の人が、寝室に入って来ることだと
答えました。
ビョルンは、
そんなことは理解できないと
思っているかのように、
自分たちが、
ここで何をしているのか
知らない人は誰もいないと、
平然と返事をすると、
ガウンを適当に整えた後、
ベッドを離れました。
ビョルンはドアを開ける前に、
エルナの方を向き、
一緒にお茶を飲む気分でなければ
言うようにと促しました。
エルナは首を横に振りながら
「いいえ、飲みます!」と叫びましたが
自分は、どうしても、
少し時間が必要だと訴えました。
風変わりなことをする
馬鹿扱いされるのは
プライドが傷つくけれど、
エルナは、どうしても
ガウン一枚を羽織って、
寝室の外に出る気になれませんでした。
幸いなことにビョルンは
大したことないというように
プッと笑うと、軽く頷き、
「そうしましょう。
淑やかな私の妃。」と言いました。
ティーテーブルが設けられた
サンルームに入る前に、エルナは、
もう一度、身だしなみを整えました。
着心地の良い室内用ドレスに
ショールをかけた程度でしたが、
気に入った服を探すために
かなり骨を折りました。
緩く編んだ髪も、リサが
精一杯実力を発揮した作品でした。
リサは
とてもとてもきれいだから
心配しないで行って来てと言うと
ドアを開けて、
躊躇するエルナの背中を
力を込めて押しました。
うっかり敷居を越えたエルナは
慌てた様子を消そうと努力しながら
そっとティーテーブルに
近づきました。
集中している顔で、
報告書を検討していたビョルンは
エルナが、
テーブルのすぐそばまで近づくと
顔を上げて妻を見ました。
それから、ニッコリ笑った彼は、
目で向かいの席を指した後、
再び書類に視線を落としました。
少し気まずくなったエルナは
急いで自分の席に座りました。
静かに近づいて来たメイドが
注いでくれたお茶からは、
ビョルンの体臭に似た、
芳しいベルガモットの香りがしました。
メイドはエルナ宛に届いた
華麗な招待状が乗っている小さな盆を
ティーテーブルの端に置きました。
王子の役割を果たしている夫の前で、
自分も、王子妃らしい姿を
見せることができるので、
エルナは少しウキウキしていました。
そして、メイドが
今日中に返信しなければならないと
告げると、エルナは慎ましく微笑み
「はい、検討します」と答えて
頷きました。
フィツ夫人が同行しなかったため、
助言をしてくれる人が
あまりいないので、もっとうまく、
やり遂げたいと思いました。
よく分からない時は、
随行団の中で一番年長で、
今、この招待状を運んで来てくれた
カレンに助けを求めるよう、
フィツ夫人に言われましたが、
エルナは、カレンが、
二度目の王子妃の有効期間は
半年にもならないというのに、
お金を賭けた人だということを
知っていました。
子供ができる前に終わって欲しい。
そうすれば、グレディス姫と
よりを戻すのが容易になる。
エルナは、カレンが他の女中たちと
クスクス話しているのを
偶然聞きました。
大公妃の寝室から、
それほど遠くない廊下で、
大声で騒いでいたのを見ると、
あえて隠す気すらなかったのかも
しれませんでした。
エルナは、
その記憶を消すかのように
首をまっすぐに伸ばし、
招待状を一枚一枚見て行きました。
時々、
ビョルンの視線が感じられるので、
より品位のある大公妃の姿を
見せたいと思いました。
しかし、エルナは、
どの招待を受けて断るべきか、
気軽に決めることが
できませんでした。
グレディス姫の味方の何人かは
思い出したけれど、
残りの四枚の招待状に書かれた名前は
見慣れないものばかりでした。
リサが髪の先に結んでくれた
青いリボンの形を整えたエルナは、
慎重に夫を呼びました。
ビョルンは返事をし、
チラッとエルナを見ましたが
彼の視線は、すぐに
手元の書類に戻りました。
邪魔者になったようで、
気後れしましたが、エルナは、
もう一度勇気を出してみることにし
ホーキンス家を知っているかと
尋ねました。
ビョルンは「いいえ」と答えました。
エルナはホーキンス家を排除し、
その後の二つの名前も排除しました。
続けて、エルナは
フォレスター家を知っているかと
尋ねました。
パラパラと紙をめくる音と共に
ビョルンは「ああ」と答えました。
エルナは、
自分が交友しても良い関係にある
家門かと尋ねましたが、
再び、紙がめくられました。
その名前を囁きながら、
もう一度リボンの形を整えたエルナは
鐘を鳴らしてメイド長を呼ぶと
返事を書く準備を頼みました。
命令を受けたカレンは、すぐに
便箋とペンを用意して来ました。
エルナは、わくわくする気持ちで
ペンを握りました。
ビョルンの視線は、
書類に留まったままで、
エルナが招待に応じる返事を
書き終えるまで、ビョルンの視線は
書類にだけ留まっていました。
それが、少し残念だけれど、
エルナは、そんな素振りを
見せないことにしました。
彼にとって、この旅行は、
ただの新婚旅行ではないので、
分別なく駄々をこねてせがむ子供には
なりたくありませんでした。
落ち着いて優雅に。
いつでもどこでも淑女のように。
祖母の教えを思い起こしている間に
書類の検討を終えたビョルンが
頭を上げました。
王子の署名が入った書類と
エルナの返事を受け取った
メイドが去ると、
ティーテーブルの雰囲気が
一層和やかになりました。
手に持ったカップを
いじっていたエルナは、突然、
すばらしい筆跡だ。
手も本当に大きくてきれいだと
ビョルンを褒めました。
恥すかしくて、
ろくに目を合わせることも
できないのに、エルナは
よくもまあ、ずうずうしく
褒め言葉を続けました。
一体、
この脈絡のない会話は何なのか。
呆れたように
エルナを見ていたビョルンは、
つい気が抜けて笑ってしまいました。
妻に美しいと褒められた手で
酒を注ぎながら、ビョルンは、
妃もきれいだと淡々と答えました。
そして、茶目っ気のこもった目を
リボンに向けると
「特にそのリボンが」と
付け加えました。
暇さえあれば、結び目を
そっと引っ張っているうちに、
リボンは最初より、優に二倍は
大きくなっていました。
エルナはお礼を言いました。
からかうために言った言葉でしたが
エルナは嬉しそうに笑いました。
いつの間にか、
自分の顔と同じくらいの
大きさになったリボンを付けて
ニコニコする若い妻を見ていた
ビョルンは、再びプッと、
もう少し柔らかな失笑を
漏らしました。
甲板で出会った人々。
メイドから聞いた冗談。
夕食のメニュー。
エルナが並べ立てるくだらない話と
心地良いお茶の香りが
ゆとりを取り戻したティータイムを
満たして行きました。
ビョルンは、
ベッドに戻ろうとするのを止め、
歌う鳥のようにさえずる声。
恥ずかしげなときめきを
そのまま露わにしている目。
もぞもぞする小さな手と
ほんのり赤くなった頬を、
のんびりと鑑賞するように
妻を見つめました。
長い沈黙が不安だったのか、
エルナは慎重に
彼の名前を呼びました。
ビョルンは、
自分を湛えた青い目が、
苛立たしげに震え始めた後、
頷きました。
エルナは、ようやく安堵しました。
ビョルンがそっと笑うと、
エルナの顔にも
明るい笑みが広がりました。
期待に満ちた瞳が輝き、
両頬は、さらに爽やかなバラ色に
染まりました。
自分が作った、その美しい笑顔を
眺めていたビョルンは、ある瞬間、
ああ、自分のものだ。
この女のすべてを
自分が手に入れているのだと
ふと、気がつきました。
いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
マンガの42話に
ルウェリン家とエトマン家が
出て来たので、
期待しながら、この56話を
読み進めていましたが、
なんと、原作では、
その後の二つの名前と
書かれているだけでした。
ルウェリン家とエトマン家を
出したのは、
CACTUS様の演出だったのですね。
ビョルンは、面と向かって、
エルナのことを褒めたりしませんが
心の中では、どれだけ
エルナのことを褒めているのか。
この言葉の一つでも言ってあげれば、
エルナはビョルンからの愛を感じ、
不安が取り除かれ、
もっと輝く笑顔を見せてくれるのに
誉め言葉を言えば損をするとでも
思っているのでしょうか。
エルナのすべてを手に入れたと
悦に入っていないで、
もっと、エルナに優しくしてと
言いたいです。