64話 レイラはヘルハルト家の馬車に乗せてもらうことになりました。
雪がかなり降っているので
馬車はスピードを出せませんでした。
窓の外を見つめるレイラの目から、
隠しきれない焦燥感が
滲み出ていました。
カタリナは、
向かいに座っているレイラを見て
しわの寄った口元に、
慈しみ深い笑みを浮かべながら、
そんなに怖がることはないと
言いました。
レイラは
そうではないと否定しましたが
カタリナは、
決して居心地の良い席とは
言えないかもしれないけれど
そんなに緊張することはない。
あなたを苦しめるために
この馬車に乗せたわけではないと
言いました。
キラキラ輝く老婦人の目からは、
微かに温もりのようなものが
滲み出ていました。
レイラは、
ようやく少しリラックスしました。
カタリナは、
初雪なのに、こんなに降るなんて
今年の冬も、かなり雪が、
たくさん降りそうではないかと
マティアスに尋ねました。
隣に座った孫を見る
老婦人の視線を追って、
レイラも、思わず
そちらに顔を向けました。
公爵と一瞬目が合っただけなのに
胸が不安定にドキドキし始めました。
「はい、おばあ様」と
マティアスは、
かすかな笑みを浮かべて答えました。
カタリナは、
レイラの学校生活について尋ねたり
今日のチャリティー公演のことを
褒めたりなど、
会話を巧みにリードしました。
そして、
レイラのクラスの子供たちの演劇まで
話が及ぶと、
彼女の笑みが一層深まりました。
そして、並大抵の困難ではなかったのに
なかなかの出来だったと、
慰めるような褒め言葉を伝えると
レイラの頬が赤くなりました。
老婦人にお礼を言ったレイラは
もう耳まで真っ赤になっていました。
口いっぱいに飲み込めば、
熟した果物のように
甘くなりそうな色でした。
マティアスは、再び思い浮かんだ
あの当惑した演技が与えた笑いを
ぐっとこらえながら
レイラを見つめました。
膝の上にきちんと揃えていた両手が
苛立たしげに、
ゆっくり動いていました。
感情を隠せないし、
嘘をつくのも下手だから、
あんなに、
ひどい演技をするしかないのだろう。
マティアスは、
座席に深くもたれかかると
自分の靴の先が
レイラの靴に届くように、
足をもう少し伸ばしました。
レイラは慌てたように
足を離しましたが、
マティアスは諦めませんでした。
よく整備された道路を出ると、
馬車の揺れが大きくなりました。
レイラは泣きたい気持ちで
馬車の床を見下ろしました。
何度か避けたけれど、マティアスは
ついにレイラの靴に
自分の靴の先を付けました。
せいぜい
その程度の接触に過ぎないのに、
レイラは、
まるで裸になったかのように
恥ずかしくなりました。
老婦人が、
まだ若いお嬢さんなのに、
子供たちを本当によく扱っていたと
再び話を続けると、
レイラは慌てて頭を上げました。
避けようとすればするほど
怪しいので、
公爵と接している靴の先については
これ以上考えないことにしました。
老婦人はレイラに
子供が好きなのかと尋ねました。
レイラが「はい」と答えると、
カタリナは、
笑みを浮かべた視線を
レイラから孫へ移すと、
賢い上に子供まで好きだなんて
本当に立派な教師だと思わないかと
マティアスに尋ねました。
レイラを一瞥したマティアスは、
快く頷き、「はい、おばあ様」と
微かに笑みを含んだ返事をしました。
レイラは、目を大きく見開きました。
儀礼的な答えなのだろうけれど
意外な態度だったからでした。
レイラの知っているヘルハルト公爵なら
ただ首を横に振って、
無味乾燥な返事をすると思いました。
公爵と目が合うと、彼は丁重に、
もうすぐ冬休みだと言いました。
レイラは「はい」と答えると
慌てて避けていた目を
再び、そっと上げて、
マティアスに向き合いました。
落ち着くために、
変に思われないように、
いつもの通り、公爵一家に仕える
ただの使用人の家族として
努めて気を引き締めました。
レイラが、
ようやく毅然とした表情を取り戻すと
マティアスは、これ見よがしに
どのように
休みを過ごすつもりなのかと
さらに白々しく尋ねました。
ありきたりな質問に過ぎないのに、
レイラは
思わず頭の中が真っ白になり、
なかなか言葉が出ませんでした。
それが面白いのか、
マティアスの片方の口の端が
わずかに上がりました。
レイラは躊躇いながら、
勉強をして、
ビルおじさんの仕事も手伝って・・・
と答えている間に、
おとなしく触れていた
マティアスの靴の先が
レイラの靴の先を蹴りました。
危うく、
ため息をつきそうになったレイラは
次の学期の準備をするつもりだと
急いで答えました。
しかし、当惑のあまり、
ありきたりな返事を、
悲壮な宣言のように言い放ったレイラを
じっと見つめていた老婦人は
気持ち良さそうに笑いました。
そして、堅実な休みの計画だ。
ビル・レマーに
本当に立派に育ててもらったと
褒めました。
レイラは、
ネズミの穴にでも入りたい気持ちで
「褒めすぎです」と囁きました。
マティアスが
何気なく足を組んで座ると
そのふてぶてしい顔に、
レイラは、
さらに恥ずかしくなりました。
からかっているに違いないのに、
「さすが立派な教師ですね、
ルウェリンさん」という公爵の話し方は
この上なく丁寧でした。
靴の踵で、足の甲を
踏みつけたい気持ちを抑えながら、
レイラは、
老婦人に対する時と同じように
丁寧にお礼を言いました。
もう、公爵を
見ないようにしようと決心したけれど
狭い馬車の中で、
向かい合った男の視線を避けるのは
なかなか難しいことでした。
結局、再び目が合った瞬間、
レイラは思わずビクッとし
肩をすくめました。
少し前の、あの茶目っ気は消え、
公爵の瞳は、レイラを飲み込んだ
あの夏の川のように、何の感情もなく
ただ深くて静かでした。
馬車は通常の二倍の時間を費やした後、
アルビスに続く道に入りました。
カタリナが居眠りを始めた馬車の中は
沈黙に包まれていました。
静かに窓の外を見ていたマティアスは
レイラに視線を移しました。
いつの間にか、
レイラも居眠りをしていました。
何とか気を引き締めようと
努力しましたが、
しばらくして急に首がガクンとなり
驚くと、首を振ったりしました。
マティアスは、
再び閉じたレイラの目を見た後、
視線をゆっくり下げました。
薄暗い馬車の中でも、
彼があげたネックレスは
ほのかな光を放っていました。
さらにマティアスは、
彼の靴の横に置かれている
まるで人形の靴のように見える
レイラの小さな靴を見ました。
この足で、あれほど疲れを知らずに
せっせと走り回るのが、
ふと不思議にさえ思える頃、
馬車が突然止まりました。
「ビル、何でここまで出て来たんだ」
と御者の声が響き渡ると、
レイラは、はっと目を覚まし
眠そうな顔で、あたふたと窓の向こうを
キョロキョロ見回しました。
ビルは、
こんな天気なので、
レイラのことが心配だと答えました。
御者は、
レイラはこの馬車に乗っている。
老婦人が気遣ってくれたと話しました。
ビルは驚きました。
二人が話す声が、
微かに伝わってくる間に、
カタリナも目を覚ましました。
レイラは、
「あの、奥様・・・」と言うと、
いつの間にか
明るい笑みを浮かべた顔で、
老婦人を見ました。
彼女の心を読んだカタリナは、
喜んで頷き、
ビル・レマーの所へ行くようにと
言いました。
ビル・レマーに出会えたのは
あの子の人生にとって祝福だったと、
カタリナは、この上なく微笑ましそうに
呟きました。
「はい、おばあ様」と
マティアスは、
習慣的な返事をしながら、
空いている向かいの席を見ました。
迎えに来たビル・レマーを見つけた
レイラは、躊躇うことなく
馬車を離れました。
マティアスは、
庭師の腕に抱かれる彼女の後ろ姿を
ただ無力に
眺めなければなりませんでした。
自分のものを奪われた気がして、
あまり気分が良くありませんでした。
カタリナは、
実の娘でもあんな風にできない。
ビル・レマーに、
あんなに優しい面があって、
まさか、
あんなにうまくやり遂げるなんて
恐らく神様も知らなかっただろうと
感嘆の声を上げました。
そして、カタリナは、
ビル・レマーのことを考えて、
このアルビスに残っていればいいのに。
なぜ、わざわざ転勤するのかと
呟きました。
その言葉が、鋭い破片のように
マティアスの意識を傷つけました。
マティアスは、
「レイラ・ルウェリンが転勤を?」と
尋ねました。
カテリナは、
他の都市に行きたがっているそうだ。
若い娘たちは、どうして皆、
故郷を離れたがるのか分からない。
生活してみれば、
結局、故郷が一番なのにと言って、
舌打ちしました。
そして、カタリナは、
先程、村の学校の校長がそう言ってた。
子供たちが、あまりにもよく
言うことを聞くし、
親たちも好きな先生なので、
何とか、あの学校に
留めておきたいけれど、
本人が、どうしても
学校を変えたがっているらしい。
カイル・エトマンとの縁談が
破談になったこともあるので、
去りたい気持ちを
理解できないわけではないけれど、
ビル・レマーとレイラは互いに、
あんなに心配し合っているのに、
どうして、
離れて暮らそうとするのか。
校長は、来年の初めまで
じっくり考えてから決めるようにと
話したので、
まだ確定したわけではない。
でも自分は、是非レイラに
ビル・レマーのそばにいて欲しいと
思うと、心から気の毒そうな顔で
言いました。
それから、カタリナは、
校長の遠い親戚が、
市内で大きな雑貨店を
やっているそうだけれど、
その家が、息子の相手として
レイラを欲しがっているそうだ。
若くして、縁談が破談になるのは
よくあることだし、
彼女の境遇はあまり良くないけれど、
かなりきれいで賢い子なので、
商人の相手としては申し分ない。
良い結婚相手でも見つけてあげれば
気が変わるのではないかと思って
校長自ら、仲人をするつもりらしいと
話しました。
マティアスは
「はい」と返事をしました。
続けてカタリナは、
ビル・レマーがそれを好まないなら
このアルビスから
それほど遠くない所に、
教養があって
品のある花婿がいるかどうか
一度ヘッセンに、聞いてみようと思う。
そのように結婚をして家庭を築き、
ビル・レマーと近い所に住み、
教鞭を取るのが、
あの可哀想な子供の人生にとって
一番良いことだと思わないかと
マティアスに尋ねました。
カタリナがおしゃべりをしている間に
馬車が邸宅の前に止まりました。
決まった答えを繰り返す代わりに、
マティアスは馬車のドアを開けて
降りました。
ドアを開けに近づいて来た御者が
ギョッとして後ろに下がりました。
マティアスは、
すでにきちんとしている
コートの襟をゆっくり整えた後、
いつものように丁寧で優雅に、
祖母に手を差し伸べました。
カタリナは、喜んでその手を取り
馬車から降りました。
ロビーの大理石のホールに入った
彼らの足音が、
深夜の邸宅の中に響き渡りました。
手をギュッと繋いだビルとレイラが
アルビスに入ったのは、
公爵家の馬車が玄関前を離れ、
その痕跡を
雪が、かすかに消した頃でした。
めちゃくちゃだった演劇の話を
聞いたビルが、休むことなく笑うので
レイラはカッとなり、
おじさんだけは笑わないと思ったのにと
叫びました。
しかし、その言葉のせいで、
ビルの笑い声は、さらに高まりました。
ビルは、
大丈夫だ。とても可愛かっただろうと
言いました。
レイラは、
観客は皆、おじさんのようではないと
不平を漏らしながらも
クスッと笑ってしまいました。
ビルおじさんが、
大丈夫だと言ってくれたので、
本当にすべてが、
大丈夫なような気がしました。
ぼそぼそと話を交わしているうちに、
二人はバラ園の外れの道に入りました。
レイラの靴をチラチラ見ていたビルは
咳払いをして、足を止めると
おぶってやろうかと提案しました。
突拍子もない提案に
レイラは、どっと笑い出し、
自分は子供ではないので
大丈夫だと返事をしました。
しかし、ビルは、
自分が迷惑だ。足を引きずっていると
かなり、うっとおしいと
不愛想に言うと、
レイラの前にどんと背中を見せて
座りました。
そして、おんぶされなければ、
担いで行くと言いました。
レイラは、
大変だろうからと遠慮しましたが
ビルは、
自分を何だと思っているのか。
年老いても、
レイラのような女の子は
五人もおぶれると主張しました。
絶対に意地を曲げないような
強硬な態度に、レイラは渋々、
ビルの背中に乗りました。
心配無用とばかりに
ぱっと立ち上がったビルは、
森の道に向かって
大股で歩き始めました。
しばらくは、
ぎこちなく硬くなっていた
レイラも、
すぐに笑いを取り戻して
おしゃべりしました。
ビルも豪快に笑いました。
並んだ二つの足跡に続いて
一つになった足跡の上に
雪が静かに舞い降りました。
やはりカタリナ様は素敵な方。
(皆様のように
私も様を付けることにしました)
エリーゼは、
レイラをアルビスに置くことを
許さなければ良かったと
後悔することもあると言いましたが
カタリナ様は、
レイラがビルおじさんに
引き取られたことを、
心から良かったと思っている。
改めて、カタリナ様は
その人の背景ではなく、
その人そのものを見る
立派な方だと思いました。
レイラの結婚相手の
世話までしようとしているのは
想定外でしたが。
ひょんなことから、レイラが
転勤を願い出ていることと、
祖母がレイラの結婚相手を
探そうとしているのを知った
マティアス。
はたして、
レイラをアルビスに置いておくために
次は何をするのでしょうか。
レイラを悲しませることは
しないと思うのですが、
彼女の自由を阻むことはしそうな
気がします。
おそらく、ヘッセンも、
マティアスがレイラを好きなことを
知っていますよね。
カタリナ様の命令とマティアスの命令の
どちらを優先させるのでしょうか?
おそらく、現当主の
マティアスのような気がします。
ビルおじさんは、
かなり小屋から離れた所まで
レイラを迎えに行ったのですね。
彼女が、
なかなか言うことを聞かないので
ビルおじさんは、半分脅すように
命令したけれど、
ビルおじさんの心の中は
レイラへの愛が
いっぱい詰まっていると思います。
ビルおじさんにとっても
レイラと出会えたことは
祝福だったと思います。
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いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
韓国版の39話で流れている曲名が
分かりました。
タイトルは
A Summer Without Blossoms
こちらから聞くことができます。
https://youtu.be/e5hOfbGw--0?si=iwKDgJFvC0RLe7K0
花のない夏。
39話が韓国でリリースされたのが
2月18日。
この曲がリリースされたのが
2月11日。
もしかして、このお話のために
作られた曲ではないかと思いました。