127話 エルナはビョルンに離婚届を送って来ました。
山のように積もった
ポーカーのチップを回収する
ビョルンを眺めていたペーターは
これは狂気だと
舌を巻いて感嘆しました。
折れた腕でも、カードを叩き出して
勝ち取った勝利は、
それ以外のどんな言葉でも
説明できそうにありませんでした。
大公妃は、
一体いつ帰って来るのだろうか?
このままでは、欲求不満の狼が
シュベリンのカードプレイヤーたちを
全員、噛み殺してしまう状況でしたが
療養に行った大公妃は
依然として帰ってくる気配を
見せずにいました。
レナードは顔色を窺いながら
もうこんな時間だと
そっと呟きました。
ようやく10時になったところでしたが
このまま夜を明かせば、
一文無しになって
朝を迎えることになるかも
しれませんでした。
もう、そろそろ・・・
と椅子からお尻を離そうとした瞬間
ビョルンが首を傾げました。
表情というものがない
その冷たい顔の上に
死ぬほど殴られて満身創痍になった
ロビン・ハインツが浮び上がりました。
そういえば、今日、ビョルンは
いつもよりたくさん
お酒を飲んでいて、
ハーバー家のパーティーで
飲んだ程度になりそうでした。
レナードは、ぎこちなく笑って
椅子に深く腰掛けると、
次のゲームを始めようと言いました。
後に続いて席を立とうとした
プレイヤーたちも
慌てて姿勢を正しました。
何も言わずに
彼らを眺めていたビョルンは、
半分残っていたブランデーを
一気に飲んだ後、
再び葉巻を口にしました。
いつもと違って乱れた身なりと
額を隠した髪の毛が
彼をさらに威嚇的に見せていました。
再びグラスを満たすビョルンを
チラチラ見ていたペーターは
一体どうしたのかと
かなり深刻な声で囁きました。
ビョルンは、もう何日も
このクラブで
生活しているようなものでした。
目を覚ましている、ほとんどの時間は
カードをしたり、酒を飲んだりして、
そうでない時は泥酔して
眠っていました。
あれは、ただの欲求不満で
説明できる状態ではないけれど
皆、直接、ビョルンに聞いてみて、
ハインツのようになりたくは
ありませんでした。
ビョルン・ドナイスタは
決して
まともな模範生ではないけれど
少なくとも、このように
自暴自棄になったことは
ありませんでした、
彼は放蕩児というよりは
冷血漢に近い部類で、
グレディス王女と離婚をして
国中の非難を受けた時代も、
そうでした。
それなのに、なぜ、
全ての汚名をそそいだ今になって、
こんな状態になったのか、
全く、理解できないけれど、
誰もそれを聞き出すことが
できませんでした。
いつ爆発するか分からない爆弾を
むやみにいじってみても、
あまり良い姿を見ることは
できないはずでした。
皆が何も言わずに
目配せをしている間に、
新しいゲームが始まりました。
まだ意識があるのが
不思議なほど飲んでいても、
ビョルンは、
かなり落ち着いてゲームに臨みました。
驚異的ではなく、
恐ろしいほどの執念でした。
今回のゲームも、
ビョルンに有利な形勢になり始めると
皆、半ば諦め顔になりました。
日が明ける頃には
乞食になっているだろうけれど
瀕死の状態で
運ばれるよりはましでした。
ところが、
ビョルンの勝利がほぼ確定した時、
じっと自分の手札を
見つめていたビョルンが、
悪態混じりの失笑を爆発させました。
一瞬、緊張した皆の視線が
彼に集中しました。
だるそうな目で
カードを見ながら笑っていたビョルンは
長いため息をつくと、
勝ったゲームを諦めるかのように
カードを下ろしました。
ペーターは
本当に心配そうな顔で
彼を観察しました。
椅子に深く寄りかかり、
天井を凝視していたビョルンは、
乱れた髪を撫でると立ち上がりました。
突然、棄権したビョルンを
見ていた彼らの視線は、
彼の席に山積みされている
ポーカーチップに向かいました。
まさか、やめる気か。
掛け金はどうするのかと尋ねると
ビョルンは「分けてくれ」と
面倒くさそうに答え、
一度も振り返ることなく
カードルームを離れていきました。
乱暴にドアが閉まる音が鳴り響くと、
息を殺していたプレイヤーたちは
一斉にため息をつきました。
ようやく我に返ったペーターは
一体、どんな札が出たせいで
ああなったのかと呟くと
ビョルンが伏せておいたカードを
一枚ずつひっくり返しました。
そして、最後のカードを確認した瞬間
恐怖を覚えたペーターは
まさかビョルンは、死に至る病にでも
かかっているのではないかと
呟きました。
しかし、他のプレイヤーも
驚愕した目で見つめ合うだけで
誰もペーターの言葉に
返事をしませんでした。
王子が捨てた札は
ストレートフラッシュでした。
ビョルンはよろめきながら
馬車に向かっている途中、
雪が降っていることに気づきました。
初雪でした。
ビョルンは、
その場にぼんやりと立ち止まり
夜空を眺めながら、
断続的に失笑と悪口を
吐き出しました。
よりによって、
あの情けない賭け事に
彼を巻き込んだ、
ストレートフラッシュが出ました。
絶対に負けるはずのない幸運の札。
だから勝ったと思っていたけれど
こんなざまで、見事に逆襲されて、
自分が倒れるとは
夢にも思いませんでした。
数歩離れた所から
見守っていた御者が
慎重にビョルンに近づき、
大丈夫かと心配して、
彼を支えようとしましたが、
ビョルンは手を振りました。
酔いつぶれた状態なのに
意識は、はっきりしていました。
もしかしたら、それさえも、
ひどい酔いがもたらした
錯覚かもしれませんでしたが。
離婚届を受け取った後、
ずっと考えていた疑問が
頭の中を漂っていました。
なぜ、永遠に続くように思えた
エルナの愛が消えてしまったのか。
それが狂いそうになるほど
気になりました。
グレディスの真実のせいか。
流産した子供のせいか。
あるいは、
これまでの自分の行動のせいか。
もちろん、この滅茶苦茶な今日は、
そのすべての最悪が総合されて
作り出した結果だろうけれど、
ビョルンは、
この現実が許せませんでした。
一人で我慢して一人で崩れて、
このように一人で消えた後、
終わりを知らせるのは、
あまりにも卑怯な反則ではないかと
思いました。
焦ってビョルンを呼ぶ
御者の声が聞こえて来ましたが、
ビョルンは依然として
夜空を見上げていました。
雪が思い起こさせたエルナの記憶が
胸の奥深くに静かに沈み込みました。
一瞬一瞬が愛だった。
エルナの視線と笑顔、
とても小さな仕草一つにも
込められていた自分への想いを
ビョルンは、
あまりにもよく知っていました。
だから、余計に、そんなエルナの愛が
こんな風に終わってしまったというのが
信じられませんでした。
いくら自分の過ちのせいだとしても、
なぜ、エルナがこんな風に
自分を捨てることができるのか
よくわかりませんでした。
すべてを与えておいたくせに
一言も言わずに、機会さえ与えずに
そのすべてを奪ってしまいました。
ビョルンは
ゆっくりと閉じていた目を開けて、
御者に向き合いました。
しばらくして彼は
駅へ行ってと指示しました。
その言葉に驚いた御者は、
駅というのは、
まさか電車が止まる駅のことかと
聞き返しましたが、
ビョルンは何の返事もせずに
馬車に乗りました。
彼には、必ずエルナから
聞かなければならない返事が
ありました。
野獣の鳴き声で目を覚ましたエルナは
何度か瞬きをしているうちに、
ようやく、
ここがバフォードであることを
思い出しました。
エルナは、ぼんやりと
天井を見つめていましたが
ため息をつきながら立ち上がると
ランプを点けました。
もう一度寝ようとすればするほど
想念だけが深まりそうなので
無意味な努力は
しないことにしました。
ショールをかけたエルナは、
ゆっくりと窓際に近づき、
カーテンを開けました。
明かり一つない闇の向こうから、
再び微かな狼の鳴き声が
聞こえてきました。
春に、ここに一緒に泊まった
ビョルンのことを思い出したエルナは
客用寝室を使うべきだったと
遅ればせながら後悔しました。
エルナは、
窓枠に寄りかかったまま
見慣れた風景を眺めました。
たった数日の記憶が
この部屋で過ごした長い歳月を
圧倒するという事実が滑稽でしたが、
あえて、
その事実を否定しませんでした。
エルナは、心を尽くして
ビョルンを愛しました。
どうして、
こんなことができるのか、
そんな自分が嫌になるほど
その男を愛していました。
そんな愛だったから、
このように深く鮮明な跡を残した。
その事実を認めることが
できるようになった日、
エルナは長い眠りから覚めました。
時には、
襲いかかるように訪れる
良い記憶のせいで、落ち込んで
涙がこぼれることもありましたが、
その苦痛も、
謙虚に受け入れました。
夜12時を知らせる掛け時計の音が
聞こえると、
狼の群れの鳴き声が収まりました。
カーテンを閉めたエルナは、
暖炉に薪をもう少し投げ入れ、
机の上の本と布切れを整理しました。
眠れない夜に備えるために
持って来た祖母のバラ酒には
手をつけないことにしました。
じっと炎を見つめていたエルナは、
静かにため息をつきながら
再びベッドに横になりました。
するとエルナは、ビョルンが、
この古くて狭いベッドに
一緒に横になってくれたことを
思い出しました。
それが大きな驚きでもあり
嬉しくもあったので、
エルナは夜が更けても
眠れませんでした。
眠りについたビョルンの顔を
眺めてたり、彼の髪の毛を
そっと撫でてみたりもしました。
体をしっかりくっつけて
横になったおかげで
彼の体温を感じ、
時には彼の心臓の鼓動に
じっと耳を傾けました。
そうしているうちに、
ビョルンが目覚めてしまい、
一歩遅れて、
その事実に気づいたエルナが
急いで体を起こそうとすると、
ビョルンが両腕を伸ばして
背中を抱きしめてくれました。
それこそ彼の体の上に
横たわる形でしたが、ビョルンは
「お休みなさい、妃」と言うと
もがくエルナを抱いた腕に
力を入れながら笑いました。
エルナが、
重くて不便だと思うと言っても
彼は大丈夫だと返事をし、
明日の夜は、
位置を変えれば公平になると、
くすくす笑いながら付け加えました。
そうはなりませんでしたが。
固まっていたエルナは、
背中を撫でてくれる
ビョルンの手の下で、
徐々に安定を取り戻していきました。
生まれて初めて
思う存分頼れる存在を持った気持ちは
不慣れでしたが甘美でした。
エルナは手のひらで
目頭をそっと押さえたまま、
十を数えました。
手のひらを伝って流れる
温かい涙の感触が感じられました。
また10を数えている間に、エルナは
自分がビョルンのために存在する
造花に過ぎないと言われた、
残酷な夏のことを思い出しました。
彼もやはりビョルンでした。
エルナはびしょ濡れになった手で
布団の襟元を掴みました。
止まらない涙が静かに流れ、
耳たぶと枕カバーを濡らしました。
愛さずにいられたら本当に良かった。
今は何の役にも立たない後悔が
訪れましたが、
それほど長くは続きませんでした。
愛さずにはいられない男に恋をした。
とても寂しくて疲れた片思いだった。
その愛は
このような痛みだけを残したまま
終わりましたが、エルナは
何の後悔もなく、
未練もありませんでした。
涙が止まると、
エルナは淡々と目を閉じました。
どうか明日は、
必ず郵便馬車が来るように。
エルナの願いは、もうそれだけでした。
電車がクラクションを鳴らして
動き始めた瞬間、
プラットホームを走ってきた
ある男が客車に飛び乗りました。
検札を終えたばかりの車掌は、
ギョッとして後ずさりしました。
最後に乗り込んだ男からは、
頭をガンガンさせるほど
濃い酒のにおいが漂って来ました。
車掌は躊躇いながら
チケットを要求した途端、
男は、バフォード行きの
夜行長距離列車の
ファーストクラスのチケットを
差出しました。
男はよろめきながら
客車の廊下を横切っていきました。
車掌は彼が無事に客室に
入ることまで確認した後、
ようやく次の車両に移動しました。
遅ればせながら、
何となくあの顔に
見覚えがあるような気がしましたが
車掌は長く悩むことなく、
自分の任務に集中しました。
列車は雪の降る暗闇の中を
走り出しました。
常に冷静沈着なビョルンが
本気でエルナが
離婚を切り出したことで
さらに情けない男に
成り下がってしまった。
もしかして、仕事もせずに
カードルームに
入り浸っているのでしょうか?
そんなビョルンの変わりように
カード仲間たちが戸惑うのも
無理はないと思います。
けれども、ビョルンが
過去のことを思い出しながら
一つ一つ自分やエルナの気持ちを
確認していく過程は、
彼が変わるためには
必要なことなのだと思います。
以前のビョルンだったら
絶対に衝動的に
列車に飛び乗ることなんて
しなかった。
彼をそのように、突き動かしたものは
エルナへの愛であることを
早く気づいてくれればいいのにと
思います。
ようやく、ある程度、
落ち着いて整理されたエルナの心が
突然のビョルンの訪問に
かき乱されることになるのは
必須でしょうけれど、
そうやって二人がぶつかり合って
少しずつ本音を出していくことで
共に頑固な性格の二人の関係が
修復していくのではないかと思います。