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49話 エルナはシーツを抱えて浴室に逃げ出しました。
フィツ夫人は、
しばらく戸惑っていましたが
すぐに平静を取り戻しました。
滅茶苦茶になったベッドと
床に転がっているパジャマ。
サイドテーブルに置かれたグラス。
たちまち消えた大公妃。
そして浴室のドアの隙間に挟まれた
シーツ。
そのすべてを総合すると、
大まかな状況が描かれました。
フィツ夫人は
落ち着いた顔で振り返ると、
他のメイドたちに退くよう
厳重に命令しました。
好奇心に満ちた目で
寝室をのぞき込んでいたメイドたちは
ギョッとしながら
一斉に頭を下げました。
そして、フィツ夫人が
「早く」と付け加えると、
メイドたちは、
急いで寝室を出ました。
最後まで未練を捨てられなかった
リサも、結局は、
出て行かなけれはなりませんでした。
寝室のドアが閉まるのを確認した
フィツ夫人は、
浴室の前に静かに近づくと、
エルナに、他のメイドたちは全員
出て行ったと告げました。
申し訳ないという
エルナの小さく震える声が、
ドアの隙間から流れ出ました。
フィツ夫人は
体調は大丈夫かと尋ねました。
エルナは
大丈夫だと答えましたが、その後、
気軽に言葉を続けることが
できませんでした。
フィツ夫人は辛抱強く待ちながら、
もう一度じっくり
大公妃の寝室を見回しました。
今朝、ビョルンは
自分の寝室で目を覚まし
一日を始めました。
いつもと少しも変わらない
様子でした。
そして、体を洗って食事をして
外出するその瞬間まで、
ビョルンは、一度も妻について
言及しませんでした。
昨日、結婚式を挙げて
連れて来た妻の存在は、
すっかり忘れてしまったような
態度でした。
フィツ夫人は、
何だか不吉な予感がしたので、
失礼を承知で
中へ入ったのでした。
夫婦間のことを、彼女が
むやみに推測することは
できないけれど、
これは、決して、正常な新婦の
朝の風景ではないことくらいは
分かるようでした。
結婚初日の朝から
何気なく自分の人生にだけ
忠実な新郎も同じでした。
フィツ夫人は、
風呂の世話をしてもらうのが
気に障るようだったら、
メイドは入れないと、
エルナが、
どうしても言い出せずにいた言葉を
かけました。
そして、
寝室だけ片付けた後、
引き下がることにする。
準備ができたら
呼び鈴を鳴らして欲しいと言いました。
エルナがお礼を言うと、
フィツ夫人は、
当然、自分がすべきことを
するだけだと返事をしました。
そして、そのシーツを
返してもらえないかと頼みました。
エルナが、なぜそれを
必死に隠すのか
見当がつかないわけでは
ありませんでしたが、
だからといって、
このまま放置しておくことも
できませんでした。
しばらくの沈黙の後、
ゆっくりとドアが開く音が
聞こえました。
フィツ夫人は、淡々とした態度で
一歩退きました。
しかし、入り口の向こうに立っている
エルナを発見した瞬間、思わず、
生つばを飲み込んでしまいました。
あまりにも大きなバスローブで
体を覆った大公妃は、
目を合わせずに、
シーツを差し出しました。
昨夜きれいに飾ってあげた
花嫁とは思えないほど
やつれた姿でした。
腫れた目と乱れた髪、
首と胸のあたりに残った跡が
目に刺さりました。
急いで顔を整えたフィツ夫人は、
何事もなかったかのように
エルナにお礼を言うと
浴室のドアを閉めました。
ビョルンが目の前にいたら、
「王子様!」と
自分でも気づかないうちに、
叫んでしまいそうな気がしました。
とんでもない花嫁を選んだのは、
もしかして
愛しているからではないかと
思いました。
しかし、世間の非難を甘受する
結婚をするほど
愛している女性なら、
一人で、
このように惨めな朝を
迎えさせるために、
放っておくわけがないと思いました。
深いため息をつくことで
謎めいた王子がくれた心配を
払拭したフィツ夫人は、
血痕が見えないように、
まとめられているシーツを抱いて
寝室を出ました。
未来がやや心配な、
大公妃の初めての朝でした。
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エルナは、
もう何度目か分からないくらい
お礼の言葉を繰り返しました。
その度に、フィツ夫人は
「どういたしまして」と、
同じ返事をしました。
一見、硬苦しそうな態度でしたが
表情と目つきは
一層、優しくなっていました。
フィツ夫人はエルナに、
神経を安定させる薬を渡すと、
飲んで、ゆっくり休むようにと
言いました。
しかし、エルナは、
今日フィツ夫人に、この大公邸を
案内してもらうことになっていたと
言うと、フィツ夫人は、
一日ぐらい延期しても大丈夫だと
断固としだ口調で返事をしました。
王子からも、
そのようにお願いされたと
善意の嘘も付け加えました。
しばらく
物思いに耽っていたエルナは、
ベッドから
起き上がろうとする気持ちを変えて
素直に薬瓶を受け取りました。
実は、体調を崩した時のように
具合の悪い体を引きずって
この広い宮殿を歩き回る自信が
なかったため、
ビョルンの配慮がとてもありがたく
幸いでした。
エルナが薬を飲んで
ベッドに横になるのを見た
フィツ夫人が退くと
エルナは寝室に一人残されました。
ほっとしながらも、一方では
寂しい気持ちになりました。
結婚初日をベッドに横になって
過ごすなんて、
孫娘が大公妃になったと
喜んでいた祖母が見たら、
これほど、
がっかりすることはないだろうと
思いました。
祖母のことを考えると、
心が少し痛みました。
バーデン男爵夫人が
バフォードに戻ったという事実を
知ったのは、
披露宴が始まる頃でした。
まともに、別れの挨拶も交わさずに
帰ってしまった祖母を恨みつつ、
恨むことはできませんでした。
シュベリンに移って来て
暮らすのはどうかと誘う度に、
バーデン男爵夫人は、人には
それぞれの居場所があるものだと
同じ返事をしました。
孫娘に、
迷惑をかけるのではないかと
気をつかう祖母の気持ちが分かるようで
エルナは、これ以上、
駄々をこねることができませんでした。
不安な気持ちで
寝返りを打っていたエルナは、
物思いに耽った顔で
天井に向き合いました。
デナイスタという名前も、
この部屋も、
まったく自分のもののようには
感じられませんでした。
何よりも自分の夫である
ビョルンがそうでした。
襲いかかるように、
昨夜の記憶が蘇ると、
薬が効いてだるくなった体が
再び硬くなりました。
思い出すだけで息が詰まるような
変なことが自分に起きたというのが
まだ、あまり
信じられませんでした。
閉じたドアを何度も確認した
エルナは布団を顔まで
引っ張り上げました。
あちこちに残った痛みが
取り返しのつかない現実を
自覚させました。
結婚とは、互いに頼り合って
茨の道を歩いていくことだという
大司教の言葉は
やはり正しいと思いました。
ビョルンは夜明け間際、
半分意識を失って
横になっていたエルナを残して
立ち去りました。
エルナは、
そうしてはいけないと思いましたが、
もう本当に終わったという安堵感が
その疑問を消しました。
一度も振り返らずに遠ざかっていく
無情な背中を、
ぼんやりと眺めていたエルナは、
夫婦の寝室をつなぐ通路のドアが
閉まる音を聞きながら
目を閉じました。
滅茶苦茶になったベッドと体を
整えるべきだと思いましたが、
指先一つ、
動かすことができませんでした。
初日の夜の最後の記憶でした。
外出したそうだけれど、
夕方頃には帰って来るだろうだか。
早く帰ってきて欲しい。
けれど、いざ帰って来たビョルンに
出くわす瞬間が恐ろしく、
何とも言えない奇妙な気分に
襲われたエルナは、
枕の山に顔を埋めました。
ビョルンは優しいけれど無情。
温かいけれど冷酷。
これほど異質な面が、
一人の中に共存するのは
不思議なことでしたが、
どちらが一方が偽りであるとも
思えませんでした。
激しく悩んだ末、エルナは、
見れば見るほど、
彼のことがよくわからないという
虚しい結論を下すと、
すやすやと眠りにつきました。
心が落ち着かないせいか
大きな白いオオカミに
生きたまま食べられる悪夢を見ました。
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夕方、
シュべリン宮殿に戻ったビョルンは
忙しいスケジュールを消化して
少し疲れているように
見えることを除けば、依然として
普段と変わらない姿でした。
フィツ夫人は、
今日は特に断固とした足取りで
彼の後ろを付いてきました。
フィツ夫人は、
妃殿下は寝室で眠っている。
体の具合が良くなさそうなので、
ゆっくり休むよう伝えたと、
ビョルンに告げると、彼は、
「あ、はい」と答えました。
フィツ夫人は、
結婚という大事を成し遂げたのだから
ほんの数日でも、
ゆっくり休んだらどうかと
それとなく、
妙に棘のある提案をしました、
しかし、ビョルンは、
新婚旅行の時にゆっくり休むと
答えました。
フィツ夫人は、眉間にしわを寄せながら
その新婚旅行まで、まだ半月もあると
言い返しました、
乳母の顔色を窺ったビョルンは
口元に軽く笑みを浮かべながら 、
もう大公妃の味方に
なることにしたのかと尋ねました。
フィツ夫人が
「はい?」と聞き返すと、ビョルンは
新婚旅行が、
ただの新婚旅行ではないということを
フィツ夫人が知らないはずがないと
言いました。
笑顔はそのままでしたが
乳母を直視する視線には、
もう笑みが残っていませんでした。
新婚旅行という形を
取っているけれど、
実質は、外交使節団を率いる
海外歴訪に近いものでした。
大陸国家間の情勢と力のバランスが
複雑に絡み合っているだけに、
堅固な同盟を確認することは
重要でした。
国王や王太子の訪問は、すぐに
重大な政治行為と直結するけれど
権力の座から外れている王子の行動は
それよりも重くありませんでした。
それに、新婚旅行という
もっともらしい口実まで加わったので
これ以上に手間のかからない
情勢を偵察する機会は
ありませんでした。
そこへ、私的な用事、
各国の金融市場を調べることまで
加わったので、
かなり複雑な旅程になりました。
なぜ結婚式を行った翌日から
議会の生気を失った老人たちに
会うのに
忙しくしていなければならないのか
フィツ夫人はよく分かっていながら
余計なことを言うには
理由があるはずだ。
生後一日目の大公妃のせいで
自分を捨てるなんて、
これは少し寂しくなりそうだという
冷え冷えとした冗談と
笑いが混じった態度のせいで、
ビョルンの意図は
より明確に伝えられました。
明確に線が引かれたことを
感知したフィツ夫人は
素早く一歩後退し、
王子に謝罪しました。
ビョルンは、自分たちの間柄で、
そんなことは言わないでと言うと
今度は、幼い頃の少年のように
ニッコリ笑いました。
言おうとしていた言葉を
飲み込んだフィツ夫人は、
極めて日常的な報告をし、
彼の後を追いました。
寝室の窓際に置かれた椅子に
足を組んで座った彼は、
受け取った手紙の封を開けながら
まだ半月、時間があるので
妻を教えるように。
妻の実家には、
寝室でのことを教えてくれる
大人がいなかったのだから、
それを誰かが
引き受けるべきではないかと
単調で落ち着いた声で命令しました。
フィツ夫人は、しばらく驚きましたが
王室に連絡して
適任者を呼ぶようにすると
落ち着いた態度で命令に従いました。
それからフィツ夫人は、
手紙を読んでいるビョルンを
見つめながら、
大公妃を妻に選んだ理由を
尋ねました。
自分の手で育てたけれど、
どうしても、王子の気持ちが
分からなかったからでした。
出過ぎていることは
分かっているけれど、疑問は、
もう抑えきれないほど
大きくなっていました。
ビョルンは、
「まあ、美しいから」と
相手が息を呑むような返事を
平然としました。
そして、フィツ夫人に、
エルナは美しいではないかと
尋ねました。
頭がズキズキする王子の質問に
フィツ夫人は
何も答えられませんでした。
ふと神様を探したくなりました。
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いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます(^^)
ビョルンが寝室に来たのは
午前0時過ぎ。
秋の夜明け間際だと
大体5時くらいでしょうか。
初めてで、わけが分からないまま
しきりにビョルンに攻め立てられ
挙句の果てに、事が終われば
さっさと自分の寝室に行ってしまう。
心身共に疲弊して、
正午近くまで寝ていたのも
当然だと思います。
エルナにとっては
最悪の夜だったでしょうれども、
それを
大司祭様の話してくれた
「茨の道を歩むこと」と
ポジティブに考えられるエルナは
強い女性だと思います。
夫と初めての夜を過ごして
幸せいっぱいの花嫁だと思っていたのに
あまりにも酷い状態のエルナを見て
フィツ夫人は
かなり混乱したでしょうけれど、
エルナのことを考えて、
思い切ってビョルンに進言した
フィツ夫人は、バーデン男爵夫人が
信頼するに値すると思います。
ビョルンが子供の頃に、フィツ夫人が
そんなことをしていたかどうか
分かりませんが、彼女の代わりに
ビョルンのお尻を叩きたくなりました。
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