160話 エルナとビョルンは、午後、外出することになっています。
「エルナは?」
別宮に入ったビョルンの第一声は、
今日も昨日と同じでした。
シュベリン宮殿の使用人たちには、
もはや、当然の挨拶のように
思われる言葉でした。
予定より早い時間に帰ってきた
王子を迎えるために
慌てている使用人の間から、
カレンが姿を現し、
妃殿下は寝室にいると答えました。
急いで走ってきたせいで
顔は上気していましたが、
その口調は落ち着いていました。
ビョルンは軽く頷いた後
階段を上りました。
そして、寝室の扉を開けながら
「エルナ」と呼びましたが、
彼女の返事は
聞こえて来ませんでした。
眉を顰めたビョルンは、
しばらく立ち止まって、
ゆっくりと部屋の中を見回しました。
エルナがここにいないという事実を
はっきり認識すると、彼の忍耐力は、
すぐに底をつきました。
やや苛立たし気なため息をつきながら
呼び鈴を鳴らしたビョルンは、
寝室のバルコニーに出て
葉巻を吸いました。
そして、伸びたばかりの灰を
払い落とした時、
何気なく視線を投げかけた
手すりの向こうの
足下に広がる異国の庭園の中に
エルナを発見しました。
つばの広い帽子で
顔を隠してはいたものの、
レースだらけの小さな女性を
見分けるのは
それほど難しいことでは
ありませんでした。
エルナは、こそこそと
遊歩道沿いを歩いては立ち止まり、
警戒するように後退し、
再び慎重な足取りで
進むことを繰り返していました。
影のように付きまとう
地獄の門番がいないのを見ると、
人知れず静かに、
抜け出したようでした。
ビョルンは深く吸い込んだ葉巻の煙を
ゆっくりと吐くと、
手すりの前に近づきました。
エルナが一体何をしているのか
気づいた彼が笑い出したのと同時に
ノックの音が鳴り響きました。
笑いが残っている声で
入室を許可したビョルンは、
まだ半分も吸っていない葉巻を
灰皿の中に投げ入れました。
足早に近づいてきたカレンは、
バルコニーの入り口で立ち止まると
頭を下げました。
呼び出された理由を察したかのように
硬直している様子でした。
カレンはビョルンに謝り、
「すぐに妃殿下を探すように・・・」
と言いかけましたが、
ビョルンは「あそこにいる」と
下女長の言葉を遮り、
目でバルコニーの下の庭を
示しました。
躊躇いながら
そこを見回したカレンの目が
丸くなりました。
大公妃は一人で、
そこを歩いていた、というよりは
鳥を追いかけているという表現が
はるかに適しているように見える
光景でした。
カレンは、
ロルカ王室で飼われている鳥だけれど
人に害を及ぼすことはないそうだと
緊張した声で説明しました。
大公妃は、
宮殿の庭園を闊歩する孔雀に
非常に大きな好奇心を見せましたが
メイドたちは、徹底的に
接近するのを防ぎました。
どんなにおとなしいといっても
見慣れない動物に
むやみに近づくのは危険なこと。
万が一、大公妃が、
あの鳥に危害を加えられたら、
使節団の使用人全員に
王子の雷が落ちることは
明らかでした。
ところが、まさか、
おてんばな少女のように、
こっそり鳥の尻尾を追いかけるなんて
カレンは困ってしまいました。
カレンが
言い訳を続けようとする瞬間に
王子はプッと優しく笑いました。
その瞬間にも、視線は依然として
孔雀の後を追う妻に向かっていました。
ビョルンが、
やっと願いをかなえてくれたねと
呟くと、カレンは驚いて
首を傾げましたが、
後になって小さな歓声を上げました。
孔雀が、長い羽根を
広げていたからでした。
巨大で華やかな扇子のような羽が
どれほど美しいことか。
宮殿の庭園を堂々と歩き回る
異教徒の鳥を
快く思っていなかったカレンも、
今回だけは、感嘆した様子を
隠せませんでした。
2人は、
バルコニーに向かい合ったまま、
孔雀と大公妃がいる庭園を
眺めました。
正午の日差しが、
熱帯植物の強烈な色を
さらに際立たせているのを
ゆっくりと見たビョルンの視線は、
再び妻の上で止まりました。
エルナが、
今どれだけ浮かれているかは
後ろ姿を見ただけで
分かるような気がしました。
確かに、
あれほど花が好きな女性にとって、
ロルカの庭園は
天国に等しいはずでした。
羽を閉じた孔雀が
悠々と去っていくと、
願いを叶えたエルナも、
そのくらいにして、踵を返しました。
花陰の下の遊歩道を歩くエルナの上に
一面、索漠とした冬の風景だけだった
新婚旅行の記憶が、
一瞬、浮び上がって消えました。
ビョルンは、目を細めて
メイド長を見下ろしながら、
シュべリン宮殿を改築する際に
ガーデンルームを建てた建築家を
覚えているかと尋ねました。
彼女は、フィツ夫人の仕事を
手伝っていたので、
エミール・バソさんですと
すぐに答えました。
ビョルンは、
そういう名前だったと呟くと、
その時、初めて、
著名な温室建築家である
白髪の老人を思い出しました。
レチェン王室と
貴族の家の美しい温室の大半が、
彼の指先から生まれたと言っても
過言ではありませんでした。
ビョルンは、
まだ生きているのかと尋ねました。
カレンは、
訃報を受けたことはないと
記憶していると答えました。
するとビョルンは、
温室を一つ作ってくれと
伝えるようにと指示しました。
彼の口調は、
大したものではない物を
一つ買うと言うように
淡々としていました。
その言葉に、混乱したカレンは、
無礼だと知りながらも
その言葉が信じられなくて
つまり、シュべリン宮殿に
温室を建てるということなのかと
問い返しました。
ビョルンは、平然とした顔で
首を横に振ると、
あんなものを育てるのに、
大公邸にあるガーデンルームでは
小さ過ぎないかと尋ねました。
ロルカ宮殿の庭園を見たカレンは、
これ以上、問い返すことができず、
もちろんそうですねと返事をして
頭を下げました。
草花などには、一抹の関心もない
王子が建てようとする
熱帯温室の主人は、
あの小さな淑女である
シュべリン大公妃になるはずでした。
ビョルンは、
妻の事に関しては
かなり盲目的でした。
そして、あえて、
その事実を隠そうとしない態度が
何を語っているのか気づくのは
それほど難しいことでは
ありませんでした。
王子は妻を愛している。
明確になったその事実が
与えた権威が
大公邸の秩序を再編しました。
エルナ・デナイスタは、
今や名実共にシュベリン大公妃、
彼らの主人でした。
カレンは姿勢を正し、
命じられた通り、
フィツ夫人に連絡をしておくと
丁寧に返事をしました。
そして、
庭に人を送って妃殿下を・・・と
言いかけたところで、ビョルンは
柔らかいけれど、
一段と断固とした口調で
「いや」と彼女の言葉を遮りました。
そして、自分が行くと告げると、
椅子の背もたれにかけておいた
ジャケットを持ち、
バルコニーを離れました。
やっと一息ついたカレンは、
まだ不安そうにドキドキする
胸をなで下ろしながら
バルコニーの手すりの向こうを
眺めました。
王子が愛する妻は、
紫色の花が満開の木の下を
悠々と歩いていました。
「ビョルン!」と驚いて名前を呼ぶ
エルナの声。
顔いっぱいに広がる笑みと
そそくさと近づいてくる足取り。
やがて彼の前に立ち止まり、
ひたすら、自分を見つめる
澄んだ目つきは、
春の日ように甘美でした。
ビョルンは、
友達と一緒に過ごした時間は
楽しかったかと、
丁重な黙礼とともに
意地悪な質問をしました。
悪戯をしてばれた子供のように
慌てていたのもつかの間。
エルナは、すぐに
いたずらな笑みを浮かべながら
頷くと、
ロルカ王室の美しい女性と
一緒に楽しく散歩をしたと
答えました。
しかし、ビョルンは
あれは紳士だと訂正し、
オスだけが、
あのような尻尾を持っていると
説明しました。
きらめく青い瞳の中に映る
自分の姿をじっと見つめていた
ビョルンの口角が
そっと曲がりました。
エルナは、
信じられないというように
眉をひそめながら、
孔雀が遠ざかった場所を見ました。
庭の塀の上に座っている鳥は、
尻尾を長く垂らしたまま
日光を浴びていました。
どう見ても
華やかな貴婦人のような姿でした。
エルナは、
本当なのかと尋ねました。
ビョルンは、
元々、すべての動物は
オスの方がはるかに華やかだと
答えました。
エルナが、その理由を尋ねると、
そのようにして淑女を誘惑すると
答えました。
あの恍惚とするほど美しかった尻尾の
上品でない用途を知った
エルナの小さなため息が
ビョルンの笑い声と混じり合いました。
その後、しばらく忘れていた事実を
思い出したエルナは、ビョルンに
どうして、こんなに
早く帰って来たのかと尋ねると
大きくなった目で
腕時計を確認しました。
約束の時間まで、
まだ1時間余りありました。
もしかしてと、
慎ましやかな期待感に
胸が膨らみましたが、
努めて、その気持ちを抑えました。
賢明な恋がしたいのに、
この男の前に立つと、
なぜ、いつもこのように
愚かになってしまうのか。
遠い道のりを戻って来たのに、
依然として元の位置に
立っているような自分が
ふと嫌になった瞬間、
ビョルンが近づいて来て、
「あなたに会いたかったから」と
告げました。
そして、エルナが守りたい
最後の一歩の間隔を再び壊した彼は
にっこり微笑むと、
「恋愛しに行こう。」と告げました。
何を話せばいいのか分からず、
呆然としているエルナの前に、
ビョルンは、
ゆっくりと手を差し出しました。
とぼけた瞬間にも、
彼の身振りは、
極めて美しく優雅でした。
後になってその言葉の意味を
理解したエルナは驚愕し、
今から行くなんてありえないと
首を振りました。
エルナは、今日を
どれだけ楽しみにしていたか
しれませんでした。
どんな服を着るか、
どんな髪型がきれいなのか、
数十回悩んだ末に
ようやく決定することができました。
ところが、
まだ何の準備もできていない
こんな姿で外出するなんて。
しかも二人きりで、
随行者もいませんでした。
エルナは、突然怯えた顔で
別宮を見ました。
大公夫妻の外出に
同行することになっている
護衛兵と使用人たちは、
すでに準備を終えたことが
明らかだったので、
このようなことをするのは
あまりにも無責任で
品位のない行動でした。
けれども、再びビョルンと向き合った
エルナの瞳が小さく揺れました。
ジャケットを脱いだせいか、
彼はいつもより
リラックスしているように見えました。
レチェンの王子を知るはずのない
ここの人々の目には、
旅行に来た外国の青年貴族のように
映るような姿でした。
それでも、エルナは
苛立たし気な目で
自分の身なりを見回しました。
リサが念入りに
準備してくれた服とは
比べものにならないけれど、
このシュミーズドレスも
非常に悪い選択のようには
見えませんでした。
腰を飾ったリボンが
ビョルンのタイと同じ青色という点が
特にそうでした。
エルナと目が合うと
ビョルンは微笑みました。
すでに心を見透かしているような
余裕のある態度が憎らしかったけれど
反論する言葉を見つけるのは
困難でした。
デナイスタの狼は、
孔雀よりもはるかに大きく、
華麗な尻尾を持っている。
エルナは最後の面目を立てると
勝てないふりをして、
彼が差し出した手を握りました。
しかし「尻尾だけ?」と
厚かましい狼に
逆襲されてしまいました。
グレディスの真実が
明らかにされる前、使用人たちは
さんざんエルナの悪口を
言っていたけれど、
ビョルンは、それを知りながらも
黙っていたわけですよね。
グレディスの秘密を守るために
そうせざるを
得なかったのでしょうけれど、
今、使用人たちが同じことをすれば
即刻クビにされることでしょう。
今まで、カレンと使用人たちが
謝罪するシーンが
出て来なかったのは残念ですが
エルナの行動一つ一つのせいで
ビクビクせざるを得ない状況に
追い込まれていることが、
エルナへの贖罪だと
思うことにします。
ビョルンは、
エルナとの約束を
きちんと守るだけでなく、
1時間も早く帰って来て、その上、
エルナに会いたかったという
甘い言葉を囁くなんて、
きっとエルナは
とても嬉しかったと思います。
ビョルンは、過去に、
エルナを辛い目に遭わせた分、
必至で償おうとしているように
感じられます。
ビョルンが、どのくらい大きな温室を
作るつもりか分かりませんが、
宝石ではなく温室なら、
エルナは喜びそうな気がします。