44話 レイラは教師になりました。
「なんてこと!レイラ、また!」と
木の下から聞こえて来た叫び声に、
レイラは、危うく
一口かじっていたリンゴを
落とすところでした。
視線を落とすと、予想通り、
モナ夫人が腕を組み、目を見開いて
レイラを見つめていました。
彼女は、
「こんにちは。いい天気ですね」
と挨拶をすると、
リンゴと本をかばんに詰め込み
軽々と木を伝って降りました。
それを見ていたモナ夫人の眉間のしわが
さらに深くなった時、よりによって、
ビルが小屋に戻って来ました。
モナ夫人は、
淑やかな娘に育てなければならないと
娘を三人も育てた自分が助言したのを
いつも無視したレマーさんのせいだ。
大人の娘が、
それも子供たちを教える先生が
木に登るなんて、
これをどうするつもりなのかと
抗議しました。
ビルは、当惑した表情で
様子を窺っていたものの、
学校の先生は、
木に登ってはいけないという
法律でもあるのか。
何でもうまくやれるのは良い先生だと
反論しました。
レイラが、
アルビスに滞在するようになって以来、
養育に関する二人の見解は
一度も一致したことが
ありませんでした。
もう、自分はすっかり大人になったと
言おうとしていたレイラは、もじもじし
顔色を窺いながら、ビルに近寄りました。
モナ夫人は、
レマーさんがこうだからダメなんだ。
お尻を叩いてでも、
お転婆娘の行儀の悪いのを
直しておくべきだったと嘆くと、
その言葉の不気味さに、
レイラはビクッとしながら、
わけもなく
自分のお尻を撫でました。
彼女の勢いに呆気にとられたビルも
いつのまにかレイラのそばで
罰を受けているような
礼儀正しい姿勢で立っていました。
しばらく、小言を並べ立てていた
モナ夫人は、本来の目的だった
食べ物がいっぱい入った籠を
さっと渡して帰りました。
目が合ったビルとレイラは
同時に、にっこり笑いました。
レイラが、言葉でお尻を
叩かれたような気がすると言うと、
ビルは、
あの女にバレないよう
木に登るようにしろ。
あと何回か小言を聞いたら、
耳が聞こえなくなりそうだと
ぼやきました。
レイラは、
おじさんのためにもそうすると
返事をして頷くと、重い籠を持って
小屋に向かいました。
その足のリズムに合わせて
肩にかけた古い道具カバンが、
カタカタと音を立てて揺れました。
とにかく、あの、ぼろカバンは
近いうちに燃やしてやると、
毎回決心しても
結局捨てられないそのカバンを
睨んでいたビルは、
若干の苦々しさが混じった
安堵の笑みを浮かべました。
新学期が始まると、
レイラは新米の先生になりました。
しばらくは慌ててミスをして
しょんぼりしていましたが、
すぐに克服しました。
そして、最近では、学校が
かなり面白くなった様子でした。
子供が子供を教える仕事を
うまくやり遂げられるだろうかと
心配したビルも
おかげで安心することができました。
しかし、レイラが心の片隅に
しっかりと隠しておいたはずの
傷と悲しみも、
ビルは知っていました。
レイラは、
たかが、あの、ぼろカバン一つにも
愛着があって、
なかなか捨てられない子でした。
だから、初恋である前に親友であり、
また血縁のようでもあった
カイルを失った傷が、
こんなに早く癒されるはずが
ありませんでした。
だから、まだダメだと思ったビルは
カイルの手紙を
ポケットの奥深くに突っ込みました。
ラッツに出発した後も、
カイルは週に一通は欠かさず
レイラに手紙を送って来ました。
そして郵便配達員は、
その手紙を必ずビルに渡しました。
ビルが、そのように頼んだからで、
郵便配達員も、
喜んで理解してくれました。
卑怯で残忍で
大人らしくないということを
知っているけれど、ビルは、
カイルに対する申し訳ない気持ちと
罪悪感を押さえつけてでも、
レイラを守ることの方が
はるかに重要でした。
ポーチに置かれている椅子に座った
レイラが手を振りながら、
ビルを呼びました。
彼は、きまりが悪そうに
彼女のそばに近づきました。
二人は並んで座り、
リンゴを分け合って食べました。
森は秋の色に彩られていました。
レイラは、
アルビスの森に
子供たちが遠足に来てもいいか
尋ねる仕事を任されたので、
執事に会う必要がある。
おじさんから、話をしてくれないかと
頼みました。
ビルは、
ヘッセンに言えば、勝手に答えを
聞いて来てくれるだろうと
返事をしました。
レイラは、
無礼なお願いではないか。
少し心配だと言うと、ビルは、
公爵家の奥様たちは
そのようなことに人情が厚いので、
快く承諾するだろう。
その学校の後援者でもあるからと
返事をすると、
レイラは目を見開きました。
彼女は、
ヘルハルト家が自分の学校の
後援者なのかと尋ねました。
ビルは、
今まで、それを知らなかったのかと
聞き返すと、この辺の学校の中で
ヘルハルト家の後援を受けていない
学校の方が珍しいだろうと
説明しました。
そうだったのかと、
レイラは独り言を呟きました。
突然浮かんだ公爵の顔は、
目をギュッと閉じて消しました。
このカルスバルでは、
どこへ行っても、
ヘルハルトの名の下から
逃れられない気分でした。
実際、そうでした。
この都市の人々は、ヘルハルト公爵家を
カルスバルの王と呼んでいました。
皇帝の家門と比べても、
引けを取らない帝国最上位貴族。
彼らは、このカルスバルの象徴であり
誇りでもありました。
ビルはレイラに
公爵家の人たちと何かあったのか。
あの生意気な貴族のお嬢さんに
またいじめられたりしたのかと
尋ねました。
レイラは驚いて首を横に振り
そんなはずがないと答えました。
再び公爵の顔と目と、
彼と向き合った時の息詰まる瞬間が
一つ二つと思い浮かびましたが、
レイラは何も言えませんでした。
レイラは、
お茶でも飲まないかとビルを誘うと
急いで台所に向かい、お茶を淹れ
モナ夫人がくれたケーキを、
皿に移し替えました。
すでに家の中が薄暗くなっていましたが
暗闇の中に、混乱を隠すように
レイラは灯りを点けませんでした。
急ぐ必要はない。
あの女を持つつもりだけれど、
マティアスは、焦って
暴れる気はありませんでした。
子供たちと一緒に
プラタナスの道を歩いて来る
レイラを発見した
「あそこにルウェリンさんが来ている」
と笑い混じりの声で話しました。
レイラが立派な大人になって
教鞭をとると、アルビスの人々は
彼女を、
ルウェリンさんと呼び始めました。
今日が、その遠足の日のようだと
運転手も一言、口を添えました。
村の学校の子供たちが
アルビスに遠足に来ることを許したのは
祖母でした。
母もまた、快く承知しました。
本来、そのようなことは
女主人の管轄下にあるので、
マティアスは、
二人の意思を尊重しました。
レイラは、
初めてアルビスに現れた時と
同じくらいの子供たちに
囲まれていました。
相変わらず子供のように
森を歩き回っているレイラが、
自分の児童たちの前では、
かなり立派な大人のように
振る舞っていました。
マティアスは、無言で
苦笑いを浮かべながら
窓から目を逸らしました。
まもなく、彼を乗せた車は
レイラと子供たちの横を
通り過ぎました。
しかし、レイラの残像は
その後もかなり長い間、
マティアスの意識の中に留まりました。
レイラ・ルウェリンで遊ぶことは、
最近のマティアスの
最大の楽しみでした。
巧みにいじめればいじめるほど、
レイラは、生き生きと輝く感情を
見せてくれました。
それは、大抵、当惑と怒り、
羞恥心と恐怖の範疇を
抜け出しませんでしたが、
その感情の名前など、
どうでもいいことでした。
この上なく優しく笑いながら
従順にしている面白くない顔よりは、
慌てふためいて怒って
生意気な口答えをした方が
ずっと面白いからでした。
先週末、邸宅の温室で
レイラに出くわしました。
ビル・レマーを手伝って
温室の花壇の手入れをしていた
レイラは、彼を発見してびっくりし、
腕に抱えていた籠を
落としてしまいました。
泥まみれの球根が、遊歩道の敷石の上に
どっとこぼれ落ちました。
ビルは遠く離れた花壇で働いていたので
騒ぎに気づいていないようでした。
マティアスは平然と近づいて
レイラの前に立ち、
球根を軽く蹴りました。
レイラは、カッとなって
頭を上げました。
もし誰かに見られたらどうしようかと
焦っている様子でしたが、
その瞬間にも、
睨みつけるような目つきは
並大抵のものではありませんでした。
レイラ・ルウェルリンが
他人に嫌なことを一言も言えない
優しくて、か弱い女だと
信じる人々のことが思い浮かび、
マティアスはにっこり笑いました。
それほど、
悪くはない気分でした。
マティアスは、
自分のものを他人と分け合う方法を
知りませんでした。
だからレイラは、今のようにずっと
彼にだけ憎たらしい女の子であれば
良いことでした。
レイラは深呼吸をすると、
マティアスに球根を
触れさせないようにするつもりなのか
素早く球根を拾って
立ち上がりました。
ぺこりと挨拶をして
逃げようとするレイラに
足をかけたのは衝動的な選択でした。
ふらついたレイラは籠を逃し、
球根は、
再び敷石の上に散らばりました。
しかし、マティアスの腕が
彼女の腰をひったくるように
包んだので、
レイラは転びませんでした。
もう少しで、
悲鳴を上げそうになった
自分の口を塞ぎながら、
レイラは気が気ではありませんでした。
もう、バラが
すべて散ってしまった季節であるにも
かかわらず、レイラからは
淡いバラの香りが漂っていました。
レイラを放したマティアスは
ゆっくりと一歩下がりました。
彼の視線が球根に向けられると、
レイラは眉を顰めました。
両目いっぱいに、
反発心を湛えていましたが
唇を閉じて、球根を拾いました。
そして、マティアスは、
再び球根を蹴って、
レイラの方へ転がしました。
彼女の目と頬が赤くなりました。
きれいな色でした。
全身をあの色に染めてみても
よさそうでした。
きれいな色。自分の色で。
都心に近づき、マティアスは
午後のスケジュールについて
確認すると、
理事会への出席が最後だと
満足のいく答えが返って来ました。
マティアスは腕時計を確認した後
短く頷きました。
遅くとも、午後の早い時間までには
アルビスに帰れるはずでした。
車から降りるとマティアスは
雲一つない空を見上げました。
日差しは暖かく、風は爽やかで、
遠足を楽しむには、もってこいでした。
カイルは手紙に
何を書いて来ているのでしょうか。
レイラへの謝罪?
レイラへの思いの丈?
きっと、カイルは
レイラから返事が来るまで、
ひたすら手紙を
書き続けるのでしょう。
ビルおじさんが、手紙をレイラに
渡さないようにしているのを
知らないまま・・・
カイルには可哀想だけれど、
今は、
レイラに手紙を見せないという
ビルおじさんの選択が
正しいのかもしれません。
いつか、何のわだかまりもなく
レイラとカイルが笑って会える日が
来ればいいのにと思います。
マティアスの行動は、
好きな女の子の気を引こうとして
わざと意地悪をしている
男の子のように見えます。
こんなことは
大人のすることではないけれど
子供の頃から、苦労することなく
欲しい物は何でも与えられて来た
マティアスは、
欲しい物が手に入らないという状況を
面白がりながら、
レイラに対する包囲網を
狭めているように思いました。
ただ、
普段は冷静沈着に行動しながらも
レイラが木が落ちそうになった時に
急いで駆け付けたりとか、
レイラが
鳥のオーナメントに触れるように
抱き上げたりした時のマティアスは
純粋に、
レイラを助けたいという感情だけで
動いたのではないかと思います。
レイラに足をかけたのは、
彼女を行かせたくないとか、
転ばせて抱き締めたいという欲望が
会ったのかもしれません。
足をかけたマティアスは
好きではないけれど
鳥のオーナメントの時に
レイラを抱き上げた時のマティアスは
とても素敵だったので、
このようなマティアスを
多く見られることを願います。
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いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
気が付けば、もう三月も半ば。
桜の開花予報日も発表され、
そろそろ、明るい色の服を
着たくなってきました。
大阪万博は来月開幕なのですね。
私が最後に行った万博は、
なんと、40年も前の
つくば科学博です(^^;)
その時に、どこか外国のパビリオンで
買ったハンカチは、今でも健在です。
なかなか、断捨離が進みません。
それでは、
次回は明日、更新いたします。