45話 レイラは子供たちと一緒にアルビスに遠足に来ています。
あの人が先生のお父さんですかと
目をパチパチさせていた幼い少年が
緊張した声で呟きました。
嘘だ。先生と全然似ていないと
少年より少し小さい少女は
泣きそうになりました。
ビル・レマーが現れると、子供たちは
ギョッとして目を丸くし、
怯えながら、そっと
レイラの後ろに隠れました。
見慣れた反応だったので
ビルは淡々としていました。
ビルは、騒々しい子供たちが
大嫌いでしたが、今日一日、
遠足に来た学校の子供たちに
アルビスの森の案内をして欲しいと
レイラに頼まれたので、
特別に時間を作りました。
レイラは、
ビルおじさんはいい人だと言って
微笑みながら、
子供たちを慰めました。
ビルも歯をむき出しながら、
ニヤニヤしました。
しかし、先ほどの臆病な少女は、
そんなビルを見て、
思わず泣き出してしまいました。
何ということだ。
自分が一体何をしたと・・・という
ビルの、やや荒っぽい抗議を
素早く阻止したレイラは
泣いている子供の前に
膝を曲げて座りました。
笑うことはできないし、
そうかといって、
顰めっ面もできなくなったビルは、
曖昧な表情で
子供の顔色を窺いました。
レイラは、胸に抱いた子供が
すすり泣くのを止めると、
ビルおじさんは本当にいい人で、
自分たちに森を見せてくれる。
おじさんと一緒に
森に住む花と木を勉強する。
面白そうでしょう?と尋ねました。
子供たちは、到底先生の言葉に
同意できない表情でしたが、
渋々、頷きました。
厄介な子供たちばかりだと
首を横に振ったビルは
先頭に立って歩き始めました。
レイラと子供たちも
すぐ後に続きました。
そういえば、
初めてレイラに会った時、
レイラも、
この子たちと同じくらいだったと、
ふと思い浮かんだ過去の記憶に
ビルの口元が柔らかくなりました。
しかし、レイラは
この子たちは皆、10歳以下だ。
あの時、自分は11歳で、
すぐに12歳になったと反論しました。
冗談を言っているかと思ったら、
口調と表情は、かなり真剣でした。
まるで、自分の年齢を言って
そっと背伸びをしていた、
あの頃のレイラのようでした。
ビルは、
小さいという言葉が大嫌いだった
小さな子供が、
今は小さなお嬢さんに育ったのを
眺めながら、
あの日のように、ただ笑いました。
午後1時を少し過ぎた頃、
マティアスは領地に戻りました。
邸宅を通り過ぎ、
川沿いの離れにつながる道を
走るという、
やや異例的な指示に、
運転手と随行人は慌てましたが、
村の学校の子供たちが
遠足に来ていることを考えれば
理解できました。
このような慈善行為は、
一般的に女主人の役目でしたが、
だからといって、公爵が
介入できない理由は
ありませんでした。
森の道を通った車が川辺に入ると、
色とりどりに染まった森と
水鱗がきらびやかな川の風景が
道の両側に広がって見えました。
アルビスが、
最も華やかに美しくなるのは
秋でした。
マティアスは、
車窓の外を通り過ぎる領地の風景を
少し見慣れないような目つきで
眺めました。
マティアスが12才の春に
父親が亡くなり、爵位を譲り受け、
その年の夏が終わる頃に
首都にある学校に入学しました。
その後、春と秋はラッツ、
夏と冬はカルスバルで暮らして来たので
彼が知っているアルビスは、
緑に染まった夏か、
静かに雪が降る冬でした。
注意深く窓の外を見る
公爵を見ていた運転手は、
カルスバルの秋は、
本当に久しぶりですよねと
そっと尋ねました。
マティアスは、
「はい、 そうですね」と
笑顔で答えました。
マティアスは、
11歳の時の秋を思い出してみました。
とても長い時間が経ったけれど、
その時と今の生活は、
あまり変わっていないと思いました。
マティアスは、生まれたその瞬間から
家門の後継者として育てられました。
そして育てられた通り、
ヘルハルト公爵になりました。
その時期が、
予定より早くなったことを除けば、
ただ決まった手順を
そのまま踏んできた人生でした。
今後もそうだろうし、
彼の人生が、
父親の人生と変わらないように、
彼とクロディーヌの間に生まれる
次のヘルハルト公爵の人生も
やはり彼と変わらないだろうと
思いました。
マティアスは、窓から視線を逸らすと
すぐに車は、離れが建っている
船着き場の脇に止まりました。
運転手が後部座席のドアを開けると
子供たちが笑いながら騒ぐ声が
聞こえて来ました。
マティアスは車から降りると
その声が聞こえた方向に
顔を向けました。
今朝見た幼い子供たちが
川岸沿いを歩いて来ていました。
その後に続く庭師を通り過ぎた
マティアスの視線は、
華やかに笑っている
レイラの顔の上で止まりました。
まもなく、
レイラも彼を発見しました。
彼女は、
大きなレースの襟が付いた
ブラウスに、
紅葉のように赤いスカートを
はいていました。
教師らしいと呼べるような
装いでした。
もちろん、その他のところは
依然として生半可でしたが。
ジャケットのボタンを留めた
マティアスは、秋の日差しの中を
颯爽と歩き出しました。
近づいて来るマティアスを見た
グレバー先生は、
あの方がヘルハルト公爵ですよねと
驚いたように尋ねました。
二人の子供の母親でもある彼女は、
上級クラスの担任を務めていました。
彼女は、レイラが返事をする前に、
こんなに近くで会うのは初めてだ。
新聞で見た写真より、ずっと素敵だと
興奮した声で囁きました。
そのグレバー先生の反応を見て、
レイラは、改めて
ヘルハルト公爵の有名さを
実感しました。
レイラにとっては、
並大抵の狂人ではない男でしたが
彼は随時新聞に写真が載り、
町中の人々の羨望と尊敬を受ける
公爵でした。
グレバー先生が、
「ところでルウェリン先生・・・」
と、何か話そうとし瞬間に、
彼らの前に近づいて来た
公爵が立ち止まりました。
子供たちと言い争っていたビルは
急いでマティアスに近づいて
挨拶をしました。
グレバー先生も同様でした。
先週末の恥辱を思い出したレイラは
後になって頭を下げました。
あの日、レイラは温室から帰る途中
あの球根を、
投げ捨てておけば良かったと
苦々しい後悔をしました。
時間を戻したとしても、
あえて、そのような蛮行を
犯すことはできないけれど、
そのように考えることで、
癪に触った気持ちが治まりました。
頭を上げたレイラと目が合うと、
マティアスは、
この方を紹介していただけますかと
丁重に頼みました。
その気品と礼儀を備えた態度に、
まるで全く違う男を
見ているような気分になったレイラは
思わず呆然としてしまいました。
他人の目に映るヘルハルト公爵は
いつもこんな姿なのだろうと思うと
尚更、呆れかえりました。
その姿に慌てたビルは、
ノックするように
レイラの背中を叩きました。
はっとしたレイラは、へその下で
硬直した両手を握りました。
どうしても
球根を投げ捨てられなかった
あの週末の午後の鬱憤が
蘇ったレイラは、
彼に負けたりしないと
固く誓いました。
レイラ・ルウェリンも、
もう立派な大人だということを。
これ以上、公爵が
勝手にいじめることができる
森の中の子供ではないということを
見せる必要がありました。
レイラは努めて
大人びた表情と話し方を維持しながら
グレバー先生を公爵に紹介しました。
好奇心に満ちた顔をしている
子供たちにも、
ヘルハルト公爵がどんな人なのかを
優しく説明しました。
レイラが到底同意できない言葉が
ほとんどでしたが、
定説がそうなので
従うことにしました。
本音を話そうとすれば、
子供たちの害になる悪い言葉を
口にしなければなりませんでした。
レイラは、
マティアスが秋の遠足を
許可してくれたことについて
丁寧にお礼を言いました。
思ったより、よくやったという
自信に満ちたレイラは、
かなり大胆不敵な目つきで
公爵を眺めました。
少し無礼にならない程度に
顎を上げ、
肩はまっすぐに伸ばしました。
それから、レイラは、
おかげ様で、子供たちが
とても楽しい時間を過ごしていると
伝えましたが、
「子供たち」という単語に
少し力を入れることで、
先生という自分の立場も
公爵に印象付けました。
マティアスは
黙って聞いていましたが、
口の端を少し上げながら、
楽しい時間を過ごしているのは
ルウェリンさんみたいだと
言いました。
その荒唐無稽な言葉に
レイラは「え?」と
聞き返しましたが、
マティアスは、何の返事もせず
しばらく失笑しただけでした。
その一瞬のひねくれた態度に
負けずとも劣らないほど、
マティアスは、優雅で丁寧に
グレバー先生と子供たちに
挨拶しました。
公爵が去ると、
後をついてきた随行人と運転手も
彼に続きました。
レイラは、
川沿いの離れに向かう
彼らの後ろ姿をじっと見つめました。
公爵が残した言葉の意味を
把握できないレイラに
グレバー先生は、
「頭・・・」と困ったような目で
レイラの頭を見ました。
自分の頭が一体どうしたのかと
不可解な表情で
頭を触ったレイラの顔が、
たちまち強張りました。
レイラは、
花冠をかぶっていたという事実を
ようやく悟りました。
一番年下で、
最もレイラに従うモニカが、
ビルおじさんが教えてくれた
野花を摘んで作って
かぶせてくれたのでした。
グレバー先生は、
先程、言おうとしたけれど、
公爵が突然来たのでと、
すまなそうに言い訳しました。
魂が抜けた人のように
ぼんやりしたレイラは何も言えず
ただ瞬きだけしていました。
この格好で、堂々と
大人のふりをしていたのだと思うと
ビルおじさんが好んで使う
あの多少乱暴な嘆きの言葉が
出て来そうになりました。
子供たちの前でなかったら、
きっとそうしていると思いました。
レイラに花冠を被せたモニカは
満足そうな顔で微笑みながら、
大丈夫。きれいです。
お姫様みたいですと、
確信に満ちて叫びました。
他の子供たちも頷きました。
ビルおじさんが呆れた時に、
ホホホと笑う理由が、あまりにも、
よく分かるような気がしました。
人が羞恥心で死ぬことができるなら、
レイラは、
永眠することもできそうでした。
満面の笑みを浮かべていたビルは
そんなに恥ずかしがることはないと
言って、
優しく肩を叩いてくれました。
少し恥ずかしかったけれど、
別に罪を犯したわけでもないからと
少しも慰めにならない言葉に
レイラの頬は
真っ赤になっていました。
その時、公爵と共に去った
活気に溢れた笑顔で戻って来て、
公爵が、遠足に来た子供たちを
離れに招待し、
一緒にお茶を飲もう言っている。
もちろん、二人の先生と
レマーさんも一緒だと告げると、
子供たちの楽しそうな歓声が
響き渡りました。
グレバー先生は
口を大きく開けて笑い、
ビルおじさんも、
あまり嫌そうな顔を
していませんでした。
みんなが喜んでいる中、
レイラは、
花冠をかぶった頭を抱えながら
空だけを見上げました。
羞恥心が
人を命を奪えなくても、
気絶くらいさせてくれればいいのにと
切に願いましたが、
レイラの意識は秋の青空のように
澄んでいました。
いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
決まった手順を踏んだ人生って
全然、面白くなさそうですが、
マティアスにとっては
生まれた時から、
それが当たり前だったので、
それ以外の人生を歩むなんて
全く、考えられなかったし
今も、そうなのだと思います。
けれども、そのマティアスの前に
レイラが現れた。
マティアスは、
その見事な腕前で鳥を撃ち
周りの人たちは、
それを褒め称えるのが
彼の手順を踏んだ人生だったのに
鳥が撃たれたことを悲しみ
鳥を埋めるレイラを見てしまった。
その時、マティアスの完璧な人生に
小さなヒビが入ったのではないかと
思いました。
メロンパンナちゃん様
前話と今回に掲載した画像は
プラタナスです。
アルビスの森には
プラタナスがあるので
それにしてみました。
もう一枚の画像の植物は不明です。