52話 リエットは何を企んでいるのでしょうか?
しばらくアルビスに
滞在することになった
リエット・フォン・リンドマンは
午後遅くに、
山のような荷物を積んだ馬車と一緒に
やって来ました。
エリーゼ・フォン・ヘルハルトは
満面の笑みを浮かべた顔で
彼を出迎えると、
彼の母親も一緒に来ればよかったのにと
残念がりました。
リエットは、
母親は、もうすぐ旅に出る予定だからと
答えました。
寒さが嫌いなリネットの母親は
南部で冬を過ごす予定でした。
リネットは、
老婦人はどこにいるのかと尋ねました。
エリーゼは、
昼寝をしているので、
後で挨拶をするようにと答えると
応接室に案内しました。
マティアスの従兄であり友人として
このアルビスに出入りして来た
リエットは、
ヘルハルト一家にとって、
ある程度、家族に近い存在でした。
彼らに対するリエットの態度も
変わりませんでした。
叔母とのティータイムを終えた
リエットは、アルビスの森へ
のんびりと散歩に出かけました。
マティアスが戻って来るのは夜らしいし
使用人たちが荷物を整理するまで
かなり時間がかかるはずでした。
そして、何よりも
マティアスとクロディーヌの
完全無欠な人生に
波紋を起こしている、
レイラが気になりました。
もちろん、リエットも
彼女のことを知っていましたが、
特別な意味を持って注目したことは
ありませんでした。
彼女は多くの使用人の一人で、
その哀れな境遇を、
ある程度は同情していて、
かなり、きれいな少女だと思いましたが
それが全てでした。
そのため、
マティアスが興味を持った女性が
レイラ・ルウェルリンだということを
知った時、リエットの驚きは、
さらに大きくなりました。
貴族とメイドの間のスキャンダルは
ありふれていて、
くだらないことでした。
しかし、たとえ、それが
一過性の欲望に過ぎないとしても
その貴族が、
まさにヘルハルト公爵ならば
話が変わりました。
遠くに庭師の小屋が見え始めると、
ヘルハルト公爵が、
レイラと医者の息子を引き離すために
嘘をついたと、
夏の終わりのある夕方に
クローディーヌが、
淡々と話してくれたことを
思い出しました。
そして、
恐ろしいほど落ち着いた眼差しで
リエットを見つめ、
唇だけで微笑みながら
マティアス・フォン・ヘルハルトが、
たかが、そのような卑しい孤児一人を
手に入れるために
嘘をついて策略を練るなんて
信じられるかと尋ねました。
クロディーヌは、
クスクス笑ってさえいました。
一体、どんな嘘を、
どうやってついたのか。
リエットが問い詰めても、
クロディーヌは
それ以上、答えませんでした。
そして、むしろ一日でも早く
手に入れられればいいのにと呟くと
クロディーヌは、
何事もなかったかのように、窓から
ブラント伯爵家の領地の向こうの
地平線に沈む太陽を見ました。
早く手に入れないと
早く捨てられないからと
静かに囁くクロディーヌは、
とても退屈で低級な三文芝居の
観客のような顔をしていました。
レイラ・ルウェリンに対する嫉妬心など
少しも感じられませんでした。
高貴な彼の婚約者が
そんなことをしたという事実に対する
少しの失望と嘲笑が全てであり、
それがクロディーヌの本心であることを
リエットは知りました。
むしろクロディーヌが
嫉妬して苦しんでいたら、
あなたを不幸にする結婚に縛られるな。
あなたを幸せにしてやれるのは自分だと
言ってみたかもしれませんでした。
しかし、クロディーヌが望む幸せは
依然としてマティアスにあり、
リエットは、
その事実もよく知っていました。
その日、二人は、
平気でお茶を飲みながら談笑し
夕食の晩餐も、
楽しくて和やかな雰囲気の中で
行われました。
そして翌朝、リエットは
ブラント家を去りました。
彼を乗せた車が見えなくなるまで、
クロディーヌは、姿勢を正して
その場にいました。
なぜそのような記憶が、未練がましく、
このように
鮮明に残っているのだろうか。
虚ろな笑みがこぼれる頃、
リエットは
小屋の前にたどり着きました。
薄暗くなり始めましたが、
家の中は暗いままでした。
しかし、
このまま無駄足を踏むのは残念なので、
リエットは、
少し待ってみることにしました。
リエット・フォン・リンドマンは
自分の不幸がすぐそこにあるとしても
決して愛のせいで
不幸にならない女性を愛しました。
単純で軽い人生を愛する彼は、
その事実を、そう受け止めていました。
だから、それよりもっと単純で
軽いいたずら一つくらい、
できないこともありませんでした。
彼には楽しさを、クロディーヌには
幸せを与えることなら
なおさらでした。
退屈になったリエットが
タバコを一本取り出した時、
森の道の向こうから、
足音とひそひそ話す声が
聞こえて来ました。
リエットはそちらを凝視すると、
まもなく熊のような男と
その男の半分にも満たない
小さな女性が姿を現しました。
リエットを発見した二人は、
庭の入り口で足を止めました。
リエットは笑顔で彼らに近づきました。
彼に気づいた庭師が無愛想に挨拶すると
その隣に立っている女性も
頭を下げました。
リエットは、
わんわん泣きながら、
マティアスが死なせた鳥を埋めに行った
少女を見た日のように
「こんにちは、森に住む鳥の女の子」
と平然と挨拶しました。
そして、
もう鳥のお嬢さんかな?
それとも鳥の先生?と言い直すと、
眼鏡越しに見える瞳に
疑問の色が浮かび上がりました。
とんもない話を
聞いているといった表情でした。
レイラ・ルウェリンに対する
リエットの見解は、以前同様、
確かに綺麗だけれど、だからといって
全ての男たちを惑わすほど
すごい美人ではない。
しかし、医者の息子と高貴な従弟が、
あの女の何に狂っているのか、
ぼんやりと分かるような、
まあそれぐらいの女でした。
リエットは、
とにかく会えて嬉しいと言いました。
テーブルの端を睨みつけていたビルは
リンドマン侯爵には気をつけろと
真剣な口調で言いました。
レイラは、テーブルの真ん中に
シチューを置きながら、
にっこり笑いました。
ビルは、
そんなに気楽そうに笑うことではない。
あの怠け者が、ここまで、
ただ散歩に来ただけだなんて、
自分は絶対に信じないと言うと
やや乱暴にパンをちぎりました。
そして、
レイラに余計なことを喋ったりと、
とにかく怪しいので気をつけろと
注意しました。
返事をしなければ
ビルが絶対に頼むのを止めないことを
レイラは分かっているので、彼女は
「はいはい」と返事をしました。
ビルはその態度が気に入らないのか
まだ、しかめっ面をしていました。
ビルは、自分の言うことを
肝に銘じなければならない。
世の中のすべての貴族が
ヘルハルト公爵のように
上品だと思ってはならないと
忠告しました。
思わず頷こうとしたレイラの眉間に
しわが寄りました。
ビルの言葉に呆れましたが
反論できませんでした。
レイラを除くすべての人が知っている
ヘルハルト公爵は
そのような人だからでした。
渋々頷いたレイラは
言いたいことを我慢するように
急いでパンを一口切って食べました。
しかし、
全く礼儀正しくもなく
上品でもない、あの男の記憶は、
ますます鮮明になっていきました。
あの憎たらしかった挨拶と
学校に送られて来た
美しい万年筆のことが思い浮かぶと、
レイラは咽て
咳き込んでしまいました。
ビルに、どうしたのかと聞かれた
レイラは、何でもないと返事をして
急いで首を横に振ると、
お腹が空いていて、
急いで食べ過ぎたせいでこうなったと
言い訳をしました。
そして、眼鏡を外し、
激しく咳込んだせいで出て来た涙も
拭きました。
じっと見守っていたビルは、
幸いにもカラカラ笑いました。
そして、
そんなところを見ると、まだ子供だと
皮肉な言い方をしましたが、
ビルの顔には、満足そうな笑みが
溢れていました。
ビルは、
ゆっくり、たくさん食べろと言うと
レイラの前の皿に、
大きな肉を山盛りにしました。
驚いたレイラは
多すぎると訴えましたが、
ビルは、いつものように頑固でした。
自分は牛のように、
よく食べる子が好きだとビルが言うと、
レイラは、
自分はもう子供ではないと
抗議しましたが、
ビルは返事の代わりに
肉の塊を追加しました。
レイラは、
牛のようには難しいけれど
ビルおじさんを
喜ばせることができるほど、
お腹一杯食べて、笑って、騒ぐことで
親密で温かい時間を過ごしました。
ビル・レマーが
軋んだ机の椅子を直している間、
レイラは台所を片付けました。
そして、大きなマグカップに
コーヒーを一杯ずつ注ぎ、
ポーチに並んで座り、
落ち葉が散る森を眺めました。
もう風が冷たかったけれど、
冬が来るまで、ビルもレイラも
そこで話をして、
一日の日課を終えました。
ビルは部屋に入る前に、
「おやすみ、レイラ」と
ぶっきらぼうだけれど、
親しみのこもった挨拶をしました。
「おじさんも、おやすみなさい」と
返事をするレイラの口元に浮かんだ
穏やかな笑みも、
これまで続いてきた
数多くの日々のようでした。
自分の部屋に戻ったレイラは、
ビルおじさんが直してくれた
椅子に座って、
子供たちの試験用紙を採点しました。
それから、図書館で借りた推理小説を
少し読み、他の学校の先生になった
友達からの手紙に返事も書きました。
公爵がくれた、
あの万年筆を思い出したのは、
最後の手紙を書き終えて
古い万年筆の蓋を閉めた時でした。
訳もなく虚空の一点を
じっと見つめていたレイラは、
決意を固めた顔で
机の引き出しを開けました。
やむを得ず家に持ち帰ったものの、
万年筆は、箱に入ったまま
放置されていました。
レイラが些細な過ちやミスを犯すと、
「そうだと思った」と
人々は舌打ちしながら話しました。
「親がいないから、そうなんだ」
というような言葉には、
いつも若干の軽蔑と同情が
込められていました。
しばらくの間、レイラは、
他の子供たちと同じ過ちを犯しても
いや、むしろ、彼らより、
ずっといい子に振舞っていても、
そのような非難を
受けなければならないということを
不思議に思っていました。
しかし、年を取るにつれてレイラは
世の中の物差しは、皆に公平に
適用されないということを
知るようになりました。
だから、レイラは
厳しい世の中の物差しの前に
立たなければならない瞬間ごとに
もっと、うまくやりたいと思い、
完璧ではないとしても、
少なくとも
「やはりそうだ」と言われる人生を
生きてはいけないと決心し、
努力しました。
何不自由なく、大事にし、
愛して育ててくれた
ビルおじさんのためにも、
必ずそのような人生を
送りたいと思いました。
そこまで考えたレイラは、
躊躇うことなく万年筆が入った箱を
取り出しました。
そして箱を丁寧に包装し、
インクを新たに入れた古い万年筆で
住所を書きました。
宛先は、
マティアス・フォン・ヘルハルト公爵。
そして差出人は、
レイラにこの小包を送って来た
見知らぬ名前と住所を書きました。
夜が明けると、レイラは
その箱をかばんに入れて出勤しました。
隣町の郵便局に立ち寄るため、
普段より早く
出発しなければなりませんでした。
贈り物を返すと、
石ころが乗っているようだった心が
一層楽になりました。
レイラは、
きっと、もう終わったと思いました。
リエットは
マティアスとクロディーヌの
双方のいとこであることが分かり
驚きでした。
レイラとビルおじさんが
一緒に過ごす穏やかな秋の夜。
それなのに、何となく、
不穏なフラグが立っているような
感じがしたのは
気のせいでしょうか?
レイラとビルおじさんの幸せが
いつまで続くことを願っています。