53話 リエットはマティアスの寝室にいます。
マティアスは、
あまり酒を好まないけれど
彼の部屋の飾り棚は、
いつも良い酒でいっぱいなので、
リエットは、
これを見るたびに胸が痛むと言って
舌打ちしながら
飾り棚の扉を開けました。
そして、このまま放っておくのは、
酒に対して礼儀を欠くと言って
ニコニコ笑いながら
厚かましくも、酒瓶を取り出すと、
テーブルの前に戻りました。
いつものように、マティアスは
彼が何をしようと
気にしない顔をしていました。
リエットは、
侍従が差し出したグラスに酒を注ぎ
マティアスに差し出しました。
それから彼は、
まるで見知らぬ他人を見るかのように
マティアスを綿密に観察しました。
彼は物思いに耽った顔で、
手にしたグラスの縁を
じっと見つめていました。
今や、この寝室の一部になったような
小さなカナリアが、
マティアスのそばで
楽しそうに遊んでいました。
「あなたの従弟は紳士的な悪鬼だった」
と社交クラブで聞いた
ヘルハルト大尉の評判が
その顔の上に浮かびました。
マティアスは、海外戦線で
服務していた時のことについて
話したことがありませんでした。
謙遜しているというより、
そのことに、
何の意味も持たなかったようでした。
その代わり、
ヘルハルト大尉の武勇伝は、
一緒に参戦した
他の貴族将校たちの口から
広まりました。
リエットは、
その戦争に参加していませんでしたが
彼らが描写するマティアスを
目の前で見たように
描くことができました。
マティアスは、
他の若い軍人たちのように
血気盛んではないけれど、
ただ義務を果たすだけという
倦怠感に浸っているわけでもない
妙な態度と、
任されたことを体系的に遂行し、
それに伴う成就と楽しさを
あえて否定はしないけれど、
だからといって、
それに特別な意味を置くこともない。
だから、
マティアスに関して話していた人々は
よく分からないという
虚脱極まりない結論に至りました。
それが、実は、
マティアス・フォン・ヘルハルトを
最も完璧に説明する言葉だということを
リエットは、
誰よりも、よく知っていました。
人々が、
本当に分からないと呟いた瞬間、
今、リエットがそうであるように
人々は、一様にため息をつきました。
生涯、マティアスを見て来たリエットも
彼に対して下すことができる結論は
よく分からないでした。
高潔な貴族。立派な後継者。
良い従弟。 名誉ある軍人。
それらの一つだけを挙げれば、
その姿は、はっきりしているけれど
そのすべてを一つに集めれば、
色とりどりの美しい光を一つに混ぜると
結局、白になるように、
何も描かれませんでした。
ある人は、ヘルハルト公爵が
自分の義務を果たすために自らを抑え
節制しながら生きていると
称賛していますが、
リエットは、その評価に懐疑的でした。
彼の知る限り、
マティアスが抑えるべき何かが
最初から存在したことは
ありませんでした。
そんなヘルハルト公爵と
レイラ・ルウェリンだなんて・・・
リエットは
にっこり笑ってしまいました。
ようやくマティアスは
彼を見ました。
今や、カナリアは、彼の肩の上に
おとなしく座っていました。
煩わしいはずなのに、マティアスは、
全く意に介さない顔をしていました。
リネットは、
いつまで、その鳥の飼い主を
するつもりなのかと尋ねました。
自分が望む時までと、
何も悩むことなく答えたマティアスは
握っていた酒を一口飲みました。
舞い上がった鳥は、再び彼の肩に戻り
サスペンダーに自分の嘴を
こすりつけました。
リネットは、
それはいつになるだろうかと尋ねると
マティアスは、「さあね」と答えて
グラスを置きました。
リネットは、
自分が、なぜアルビスに来たのか。
自分が何をするつもりなのか
マティアスは気にならないのかと
尋ねました。
彼は「気にならない」と、
とりたてて情けないことでも
すべて聞くという風に
無心に答えました。
リエットが、突然アルビスを訪ねて
何週間も滞在するのは
特別なことでもありませんでした。
とにかく、イラつく奴だと言って
大笑いしたリエットは、
残りの酒を一気に飲み干しました。
それから、リエットは、
マティアスを注意深く見ながら
欲望だろうかと考えてみました。
それが最も適当な仮定のようでした。
美しい女が欲しい男の欲望。
それは一種の本能に近いだろうし、
感情がないからといって
本能まで消えたわけではないだろうと
思いました。
しかし、
彼女より、もっと美しくて
高貴な女たちにも一様に無感情だった
ヘルハルト公爵が、
どうしてよりによって、
あの孤児なのか。
考えれば考えるほど、
次第に迷宮入りする気分なので、
リエットは、その辺で
考えるのを止めました。
テーブルの上を、
うろつき回っていた鳥は、
マティアスが短く口笛を吹くと
彼の所へ飛んで行きました。
その光景を見守っていたリエットは
マティアスより長くて華やかな口笛で
鳥を呼んでみましたが、
鳥は彼の手の甲に座って
首をかしげるだけで、
近づく気配を見せませんでした。
鳥も主人を見分けるのかと呟くと
自然と、空笑いがこぼれました。
警戒心に満ちた目で
彼をじっと見つめていた
あの女性のことを
ふと思い出したりもしました。
しかし、 医者の息子にも、
ヘルハルト公爵にも容易い女が
彼だけに難しいはずがないと
思いました。
そして、リエットが知っている
まさに、その
マティアス・フォン・ヘルハルトなら
自分の従兄と
痴情のもつれを起こすより
クロディーヌが望むように、
その女性を捨てるだろうと思いました。
リエットは、
グラスに酒を注ぎながら、
週末に狩りにでも行かないかと
マティアスを誘いました。
しばらく物思いに耽っていた
マティアスは、
用意させておくので一人で行けと
予想外の返事をしました。
リエットは目を見開きました。
彼の記憶が
おかしくなっていなければ、
マティアスが狩りの誘いを断ったことは
一度もありませんでした。
リネットは、信じられなくて、
まさか、本気なのかと聞き返すと
扉をノックする音が響き渡り、
執事のヘッセンが
その日に届いた小包と手紙を
マティアスの元へ運んで来ました。
こんな時間に、たかが、
あんなつまらない用事のために
執事が入って来るなんてと
リエットは、
気乗りしなさそうな目で
彼らを見ました。
執事の固く閉ざされた唇から、
リエットは、
自分が出て行くようにとの合図を
読み取りました。
リエットは、
それでは、また明日と挨拶をし
軽く手を振ると、グラスを持って
マティアスの寝室を出ました。
彼の足音が遠のくと、
ようやく、ヘッセンは、
小包が戻って来たと告げると、
少し困ったように、マティアスに
小さな箱を差し出しました。
見知らぬ場所から、
見知らぬ名前から届いた物でした。
マティアスは、
誰なのかと尋ねました。
ヘッセンは、
自分の親戚で、命令を受けた際に、
この名前と住所を使ったと答えました。
マティアスは、
レイラ・ルウェリンに
良い万年筆を一本送ってくれと
先週、ヘッセンに命令したことを
思い出しました。
それに気がつくと、
すべてのことが理解できました。
ヘッセンは、
何か言おうとしましたが、
マティアスは、
いつもと変わらない口調で
ヘッセンの言葉を遮ると、
分かったと返事をし、
彼に出て行くよう命令しました。
ドアが閉まると、
マティアスは箱を握ったまま
立ち上がりました。
引き裂かれた小包の包装紙が
暖炉の火の中に落ちました。
そして、箱の中には
メモ一枚と万年筆が
きちんと置かれていました。
マティアスは、
指の間に挟んだメモを
注意深く読み上げました。
考えてみると、
万年筆を失くしたのは
自分のせいでした。
転んだことも、落ちた物を
まともに拾えなかったことも
適時に物を取り戻せなかったことも
全て自分の過ちなので、公爵様が
責任を負う必要はないことです。
受け取る理由がない品物なので
お返しいたします。
彼女の名前すら書いていない
生意気なレイラのメモを、
何度も繰り返して読んだ
マティアスの眉がつり上がりました。
口角が歪み、
乾いた笑みがこぼれました。
揺れる炎が、
しわくちゃになったメモと箱と
新品の輝く万年筆を飲み込みました。
その光景を見守る
マティアスの顔の上に、
自嘲と怒り、恥辱感と失笑が
順番に浮び上がりました。
その鮮明な感情が
一つに絡み合った瞬間、
表情が消えました。
残ったのは、
一見、静かで穏やかに見える顔と
その上にちらつく光の影だけでした。
授業は早く終わったけれど、
その日は、学校の評議員会議が
開かれるので、むしろ、レイラは
もっと忙しくなりました。
今日は、建物があまりにも小さく、
古くて増築が必要なことを
議論すると聞いていました。
レイラは、
参加する人数に合わせて
会議室に椅子と机を置き、
簡単な筆記具とメモ帳も用意しました。
そして、
早足で近づいて来たグレバー先生に
準備が終わったかと聞かれたレイラは
最後に会議室を見回すと、
笑いながら頷き、
もう、できたと答えました。
グレバー先生は、
後援者たちが到着しているので、
早く行こうと促しました。
レイラは
急いで身だしなみを整えた後、
グレバー先生の後を追いました。
後援者たちを乗せた
豪華な馬車や自動車が
次々と校門を通り過ぎました。
レイラは、
不吉な予感を否定するかのように
首を振りました。
今日の会議に出席する予定の
後援者リストを何度も見ましたが、
ヘルハルト一家はいませんでした。
それなのに、
しきりに胸が不安になるのは
あのことが、
気になるせいだろうと思いました。
贈り物を返してから
数日が過ぎましたが、
公爵はそれについて何も言わず、
以前のようにレイラを訪ねて
追及したり苦しめたりすることも
ありませんでした。
ひょっとして、
またそのようなひどい目に
遭うのではないかと心配していた
レイラも、
今や安心したところでした。
公爵のプライドに
触れたかもしれませんでしたが
どうせ一度は
やらなければならないことでした。
いくら男女間のことに無知だとしても
レイラにも、
微かな予感のようなものはあり、
公爵の欲望と、
それが自分に及ぼす害悪程度は
推し量ることができる年齢でも
ありました。
レイラは、公爵も、公爵の欲望も、
公爵の欲望がもたらす波紋も
すべて嫌でした。
関係のない世界のことに、
これ以上、
巻き込まれたくなかったし
傷つきたくありませんでした。
贈り物を返しながら、
その気持ちを伝えたので、
公爵も、もう気づいたはず。
あの孤高な男の沈黙は、
すなわち納得を意味するだろうと
考えました。
ゆっくりと胸をなで下ろしたレイラは
後援者たちを迎えるために
並んだ行列の最後に立ちました。
雨が降って、空気がかなり冷たく、
天気のせいで、
参加率が低いのではないかと
心配しましたが、幸いにも、
参加を約束した後援者たちは、
全員、姿を現わしてくれました。
レイラは、
笑顔で丁寧に挨拶することで
自分の役目を忠実に果たしました。
会議が始まったらお茶を出し、
静かに待ち、
再び後援者たちを見送れば、
レイラの初の評議員会議は
成功裏に終わるはずでした。
最後に到着した貴婦人まで
玄関の中に入ると、
校長が背を向けました。
他の教師たちも歩き出そうとした瞬間
自動車一台がやって来て
止まりました。
当惑した表情で
背を向けた校長の顔には、
すぐに満面の笑みが浮かびました。
「何とまあ!公爵様!」
再び笑いながら
挨拶する準備をしていたレイラの唇が
ブルブル震えました。
いいえ、違うと、レイラは
現実を否定するかのように
首を横に振りながら、
不安そうに震える目を上げました。
ヘルハルト公爵が
随行員の持っている傘の下に
特有のきちんとした姿勢で
立っていました。
並んでいる教師たちを
注意深く観察していた彼の目は、
青ざめたレイラの顔の上で
止まりました。
目が合うと公爵は
一見穏やかな笑みを浮かべました。
一体、リエットは、レイラのことを
何だと思っているのでしょうか。
卑しい孤児だから、
お金持ちの貴族がモーションかければ
簡単になびくと
思っているのでしょうか。
(怒りがメラメラ)
レイラがカイルと仲良くしていたのは
彼と一緒にいると、楽しくて
心が安らげたからであり、カイルが、
お金持ちだからではないのに。
それにマティアスに対しても
レイラが誘惑したのではなく、
勝手に彼が執着しているのに、
レイラが簡単に男に落ちる女だと
思っているなんて、
絶対に許せないです。
そして、マティアス。
レイラに、
万年筆を突っ返されたことで
腹を立て、今度は、評議員として、
彼女に圧力を
かけるつもりなのでしょうか。
彼は一番の後援者。
彼が学校の増築費用を出さないと
レイラを脅すのではないかと心配です。