60話 メイドたちがエルナの悪口を言っています。
連れて行くのが
恥ずかしいのではないかと、
あるメイドが言った言葉に、
笑い声が広がりました。
そうするのも無理はない。
無駄にラルスの人たちの前で
レチェンの恥を
かかせることになるのだからと
一言ずつ、言葉が加わるにつれ、
声と騒々しい笑い声が
高まって行きました。
建物の裏手に続く遊歩道を
歩いて来たエルナは、
道端にある一抱えもある木の下で
立ち止まりました。
並んで歩いていたリサも一緒でした。
二人の会話が止まると、裏口の前で
おしゃべりをしている使用人の声が
さらに、はっきりと伝わって来ました。
一人ですべての歴訪の日程を
消化している王子に同情し、
何の役にも立たず、夫にさえ、
そっぽを向かれている王子妃を
中傷した会話は、
今やグレディス王女を懐かしむ方向に
流れていました。
憤慨したリサが飛び出そうとした瞬間
エルナは、
いきなり彼女の手首をつかみ、
断固たる態度で首を横に振りました。
こんな無礼をただ見過ごすなんて
理解できない命令でしたが、
リサは、
反発することができませんでした。
切実な懇願が込められたエルナの目を
無視できなかったからでした。
むやみに騒ぎ立てる言葉が続く間、
二人は木の裏に静かに留まりました。
なかなか怒りを抑えられない
リサとは違って、
エルナは、終始一貫して
毅然とした態度を保ちました。
もっともらしい演技でしたが、
揺れる眼差しと
青ざめた顔色まで隠すには
力不足でした。
リサは罪のない唇を
しきりに噛みながら、
いつの間にか長くなった
夕日の影を見下ろしました。
また、このように
新婚旅行の一日が終わるのかと思うと
癪に触って、恨めしくて
悲しくなるほどでした。
すでにエルナは、
数日間、一人で放置されていて
この宮殿で、
いつ帰ってくるか分からない夫を
待つのが日課のすべてでした。
運が良ければ、
夕食くらいは一緒にできるけれど、
そうでなければ、
それこそ一日中一人でした。
参加する集まりも、
訪れる客も一人もなく、
ただこのように
メイドと散歩でも楽しんで、
ただでさえ、
女主人を見下す者たちから
このように無視をされるのも、
無理はありませんでした。
たかが、こんな扱いをするために
あの騒々しい結婚をしたのだろうか。
理解できない王子を、
恨んで、また恨んでいる間に
裏口の前に集まって
休憩していた使用人たちが
去って行きました。
ようやくエルナは、
リサをしっかりと握っていた手を
離しました。
どうすればいいのか分からず
困っていたリサに、
エルナは微笑みながら、
すごい秘密でも伝えるかのように、
「ちょっと見て」と
先に囁きました。
うっかり、
エルナの指差ししている所に
視線を移したリサは、
ついつい気が抜けて
クスッと笑ってしまいました。
頬を膨らませたリスが、
木の枝に座って
彼女たちを見下ろしていました。
妃殿下は本当に早いという
リサの泣き言に驚いたリスは
木を伝って、
すぐに遠くまで逃げました。
残念そうに、
カエデの林を眺めていたエルナは、
呆気ない笑顔で
再びリサに向き合いました。
まっすぐな姿勢と澄んだ眼差しが
赤くなっている目頭を
さらに際立たせました。
エルナの合わせている両手が
微かに震えていることに
リサは、ようやく気づきました。
言いたいことが多かったけれど
リサは何も言えませんでした。
幸い、立ち止まっていたエルナが
一歩、踏み出したので、
ぎこちない雰囲気は
それほど長くは続きませんでした。
二人は黙ったまま、
赤い落ち葉が積もった道を歩きました。
エルナは、
自分の悪口を言った使用人たちが
留まっていた裏口の前のベンチを
チラッと見ただけで、何も言わずに
裏庭を通り過ぎました。
いつの間にか西の空は、
一面、赤色に染まっていました。
このくらいで本を閉じたエルナは
いつもと変わらない笑顔で、
今日も世話になったと
カレンにお礼を言いました。
当然のことだからと、
形式的な礼儀を尽くした
メイド長の返事も、
普段と変わりませんでした。
夕方、使用人たちの前で
欠点のない完璧な王太子妃だった
グレディス王女を絶賛した時とは
全く違う態度でした。
カレンは、
これから、お風呂の準備をするよう
指示すると、エルナに伝えると、
丁寧に挨拶をして去りました。
エルナは一人残されました。
すでに夜が更けたけれど、
ビョルンは、
まだ帰って来ていませんでした。
ラルスに到着してから、
いつのまにか十日が過ぎたけれど
夫と一緒に夕食をした日は
わずか三日だけでした。
しかも、そのうちの一日は、
旅の疲れを癒すために
休暇を取った日でした。
それでも、
今日はかなり遅れるだろうという話を
あらかじめしてくれたので
幸いでした。
少なくとも、
期待して待っていて、すっぽかされた
みすぼらしい姿まで、
見られないからでした。
見慣れない部屋を
じっくり見回したエルナは、
机に置かれたノートに
視線を移しました。
表紙をめくると、
自分なりの基準を定めて、
レチェンとラルスの社交界の人脈を
整理した図表が現れました。
カレンを捕まえて、孤軍奮闘の末に
完成させました。
しかし、最善を尽くしたものの
グレディス王女と
親交のある貴婦人たちを
すべて排除して残った名簿は
みすぼらしい限りでした。
それさえも、
大部分が社交界と壁を作って暮らし、
どんな集まりでも、
ちょっとやそっとのことでは
会うことがない名前のようでした。
不安そうな目で図表を見ていたエルナは
小さなため息をつきながら、
ノートを閉じました。
気分転換のために、
祖母への手紙を書き始めましたが、
それほど、
良い選択ではありませんでした。
自分は
新婚旅行を楽しんでいるところだと
力を込めて書いた、
その文章の後に続く内容が
全く思い浮かびませんでした。
ありのままの真実を伝えて、
祖母に心配をかけることは
できませんでしたが、
一体、楽しい新婚旅行が何なのか
知る方法がないので、
もどかしいことでした。
長い間悩んでいたエルナは、
夫は噂とは全く違って、
思いやりが深く、優しい人だ。
ここでも、思ったよりずっと
歓待されている。
新しい世界を旅するのに忙しく、
また、その分、
幸せな日々を送っているので
心配する必要は全くないと、
いくつかの嘘で埋めた手紙を
やっとの思いで完成させました。
それでも、この手紙を読んで、
喜ぶ祖母のことを思うと、
エルナの口元にも、
微かな笑みが浮かんで来ました。
完成した手紙を封じると
風呂の準備ができました。
一人でいたい気持ちが、
やまやまだったけれど
エルナはメイドたちの世話を
退けませんでした。
寝室では、
自分の役割を果たしているようなので
本当に幸いだと、
隠れて聞いた嘲弄の言葉が
しきりに耳元に残っていましたが、
ぐっと我慢しました。
他人に見られたくない跡がいっぱいの
体を露わにする羞恥心も
喜んで甘受しました。
何が最善なのか、
まだよく分からないけれど、
少なくとも、逃げたくない。
エルナは、そう決意すると
浴槽に身を沈めました。
グレディス姫と新婚旅行をする時は
すべての場所に、妻を同行させた。
どこへ行っても、
二人が一番輝く主役だったのを
覚えているか。
完璧に、お似合いのカップルだった。
ピシャピシャいう水音のせいか、
思い出したくない記憶が
ますます鮮明になっていきました。
ぼんやりと揺れる水面を
見つめていたエルナは、
意識を遮断するように
目を閉じました。
入浴が終わる頃、
ビョルンが帰って来たという
思いがけない知らせが届きました。
ビョルンは、妻の寝室まで
自分の後を追って来た
使用人たちに向かって、
皆、もう休むようにと、
疲れ混じりの笑みを浮かべて
命令を下しました。
そのようなことは
今まで経験したことがなかったので
彼らは顔色を窺いながら
躊躇しましたが、
結局、全員、反問することなく
退きました。
ドアが閉まると、ビョルンは、
辛うじて、
コートとジャケットだけを脱ぎ、
妻のベッドに身を投げました。
まだ、入浴が終わっていないのか、
エルナは姿を現しませんでした。
ビョルンは仰向けになると
静かなため息をつきました。
ラルスの外務大臣との
昼食会から始まり、
銀行買収団との会議。
グレディスの二番目の兄である
アレクサンダー王子との飲み会まで、
非常に頭が痛くて、癪に触って
イライラすることが続いた一日でした。
何よりもフィナーレが華やかでした。
ラルスの三人の王子は皆そうだけれど
アレクサンダーは、
特に妹に対して格別でした。
グレディスの秘密を知らなかった時には
情けない脅迫で
面倒をかけられたけれど、
すべてを知った最近は、
どうか妹を許して欲しいという
執拗な謝罪のせいで、
苛立ちを募らせているところでした。
そのくだらない罪悪感を利用して
得られる利潤が少なくないので
放っておいてはいるけれど。
今夜、酒に酔った
アレクサンダー・ハードフォートは
「かわいそうな二人!」と言って
完璧だった夫婦を引き離した
運命のいたずらを嘆いて
泣く醜態まで見せました。
それは運命ではなく、
お前の、ろくでもない妹と
くそくらえの詩人の奴の
戯れだったという話を
しようとしたビョルンは、
酔っぱらいと論争することほど
無意味なことはないと思い、
すぐに気を変えました。
それでも辛抱強く、その場にいたのは
純粋に、王子が預託を約束した
ラルスの金貨と証券のためでした。
今までにない忍耐力を
発揮できないことがないほど
かなり満足できる金額でした。
「どうして君が、あんな女と」
泥酔したアレクサンダー王子が
切実な同情を込めて口にした言葉が
思い浮かぶと、ビョルンの口から
プッと失笑が漏れました。
ビョルンは「あんな女」という
エルナを指すその蔑称が
ただただ滑稽でした。
他の男の子供を身ごもったまま
嫁に来る不埒なことをした王女を
高潔な聖女のように崇める
人々の口から出てくる言葉という点で
特にそうでした。
「くそハードフォートども」
ビョルンは、ゆっくりため息をつくと、
タイの結び目を引っ張りました。
ラルスの王族と貴族たちは、
大陸の花と呼ばれる
グレディス王女に勝った
レチェンの大公妃が
気になっていました。
しかし、彼らは、あんな女を、
決して王女の隣に、
立たせることはできないだろう。
自分が、そうさせないから。
ベストのポケットから取り出した
懐中時計を再び閉めようとする瞬間
彼を呼ぶ馴染みのある声が
聞こえて来ました。
そちらは顔を向けると、
ちょうど浴室から出てきたエルナが
見えました。
みずみずしい顔いっぱいの笑顔が
今日に限って、
特に明るく見えました。
口角を上げたビョルンが手招きすると
エルナは、
早足でベッドに近づきました。
その間、ビョルンは、
待機中のメイドたちに目を向けました。
急いでカーテンを引いて
照明を調節したメイドたちが退くと、
寝室には二人だけになりました。
ベッドのそばに立って
彼を見下ろしていたエルナは
お酒を飲んだのかと尋ねました。
ビョルンは「うん」と答えて
ゆっくり頷くと、
隣の席を指差しました。
エルナは躊躇いながら、
ベッドの端に慎重に腰を下ろしました。
エルナはビョルンに
酔っているのかと尋ねました。
彼は否定すると、笑みを浮かべながら
警戒する妻の腰を引き寄せました。
彼の腕の中に倒れ込んだエルナから
甘くて柔らかい体の匂いがしました。
一日中、刃が立っていた心が
穏やかになるような香りでした。
ビョルンは、もがいているエルナを
自分の体の上に、しっかりと
密着させて抱きしめました。
エルナはビクッとして、
体を固くしましたが、もはや
不必要な抵抗を続けませんでした。
注意深く彼を見ていたエルナは、
何かあったのかと、
慎重に尋ねました。
ビョルンは、
にっこり笑って否定しました。
嘘ではありませんでした。
今日の日程で、
彼とレチェンが得た利益は莫大でした。
これくらいなら、
あえて自分に同情した
グレディスの兄一人くらい
我慢できないこともない一日でした。
エルナは、
信じられないような
表情をしていましたが、
それ以上、問い詰めることなく
それなら良かったと言って、
頷きました。
エルナは、
子供のような笑みを浮かべながら
自分も、元気に過ごした。
今日は、リサと一緒に、
この宮殿の裏側にある森を散歩した。
カレンに手伝ってもらって
レチェンの貴族の家の勉強もし
祖母に送る手紙も書いたと
くだらない一日の日課を
自慢するようにしゃべり始めました。
続けてエルナは、
ティータイムに、
ラルスの伝統のケーキと
アーモンドクッキーを
食べてみたけれど美味しかった。
散歩に行く時に、それを持って行って
リサと分けて食べた。
明日はリスにあげるものも・・・と
おしゃべりましたが、ビョルンは
じっと見つめていた小さな唇に、
衝動的にキスをしました。
驚いたエルナは、
体を後ろに反らしましたが、
彼の腕から離れることは
不可能でした。
ビョルンが体を回すと、
あっという間に
視線の位置が変わりました。
疑問のこもったエルナの大きな目を
しばらく見下ろしていたビョルンは
さらに性急に口を合わせました。
彼が与えることができる
唯一の答えでした。
ビョルンとグレディスが結婚した時、
もしかしたら、ラルスの国民の方が
レチェンの国民より
熱狂したかもしれないので、
レチェン同様、
二人の結婚写真が出回っていて、
ビョルンの顔はラルスの国民にも
知られているはず。
そして、ビョルンは、妻と子供を捨てた
酷い男にされているので、
ラルスの国民はビョルンを恨んでいる。
そして、ビョルンとよりを戻すべく、
王とグレディスは、
レチェンではなくラルスでも
マスコミを動かしているはず。
すると、ビョルンとグレディスが
よりを戻す邪魔をしたエルナは
ラルス国民にも憎まれている。
一方、王族と貴族たちは、
エルナとグレディスを並べて、
二人を比較し、
エルナに比べてグレディスが
どれだけ素晴らしいか。
そして、
グレディスを捨てたビョルンを
後悔させようと待ち構えている。
ラルスにいる間、ビョルンが
エルナを、ずっと宮殿に
閉じこめたままなのは
皆様もご指摘いただいている通り
ビョルンが
エルナを守るためだったのだと
私も思いました。
もしも、ビョルンが
そのことを少しでも
エルナに話してあげれば、
彼女の苦しみも、
少しは和らぐのにと思います。
自分の疲れを癒すために、
エルナを求めるだけではなく、
彼女の心の痛みも、
癒して欲しいと思います。
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いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
嬉しいお言葉をたくさんいただき
感謝のしようがありません。
記事を書く方に必死で、
なかなか一人一人にお返事ができなくて
本当に申し訳ありません。
話は変わりまして、
「妃殿下は本当に早い」という
リサの泣き言。
これしか書かれていないので、
何が早いのか、
よく分からなかったのですが
心の切り替えが早いとか、
変わり身が早いという意味かな?と
思ったのですが、
皆様は、どう思われますか?
お時間があったら、
ご意見を聞かせていただけると
嬉しいです。
それでは、次回は
明日、更新いたします。