62話 エルナとビョルンは、同じベッドで朝を迎えました。
心地よい夢を見ました。
目が覚めた瞬間、
ぼんやりした夢でしたが、
その残像は鮮明に残りました。
暖炉の温もりのように、
カーテンの隙間から差し込む
朝日のように。
もしくは柔らかい羽毛・・・羽毛?
夢の一部というには、
あまりにも鮮やかな感覚に
ビョルンは首を傾げました。
そして、
背中をくすぐっていた羽毛の正体は
彼の背中の後ろで横になって眠っている
エルナの吐息だと知ると
ビョルンの唇から
改めて低い笑いが漏れました。
茨の道を歩くことにした最初の夜、
エルナは、絶対に、
寝苦しい思いをさせたりしないと
固く約束し、
ベッドの反対側の端まで退いて
横になることで、その意志を
証明して見せたりもしました。
しかし、次の日は少し近く、
その次の日は、
もう少し近く距離を縮めて、
とうとう背中まで近付きました。
ビョルンは体を起こして座ると
恥じらいながらも厚かましい詐欺師を
見ました。
前後不覚に眠りこけているエルナは
無防備で平穏な姿でした。
いつパジャマを、また着たのか。
ネックラインを留めるリボンまで
きちんと結んでいました。
最初のスケジュールまで、
まだ余裕があることを
確認したビョルンは、
ベッドヘッドに斜めに寄りかかって
目を閉じました。
少し不便ではありましたが、
思ったほど、悪くはありませんでした。
初日は寝不足でしたが
二日目は、やや良くなり、
数日経った今は、どうにかこうにか
過ごせるようになりました。
背中の後ろに
横になったエルナがいても、
良い夢が見られるほど
安らかに眠れたことを見れば、
この茨の道は、
それほど険しくはなさそうでした。
眠けが覚めるほどの時間が経つと、
ビョルンは、
ゆっくりと目を開けました。
エルナは、
まだぐっすり眠っていました。
長い睫毛の影と、
細くて、か弱い顔のラインを
じろじろ見ていたビョルンの視線は
枕の上に慎ましやかに置かれた
白い手の上で止まりました。
途轍もなく、小さく見える手でした。
小柄な女なので、
手も小さいのが当たり前なのに、
なぜか、その事実が
今更のように感じられました。
そんな自分が、
ふと滑稽になったビョルンは、
それくらいにして、
呼び出しベルを鳴らしました。
しばらくして、
モーニングティーを運んで来たメイドが
寝室に入って来ました。
ビョルン用の濃い色のお茶と、
エルナ用の薄い色のお茶が
それぞれ入っていました。
ビョルンは、静かに妻を呼びました。
小さく寝返りを打っていたエルナは、
すぐに目を覚ましました。
じっと彼を見つめている顔に
徐々に広がる微笑みも、
大司教から始まった茨の道が作った
朝の風景の一つでした。
「おはよう、ビョルン」
枕の上に置かれていた手が
そっと近づいて来て、
彼の指を包み込みました。
そして「おはようございます」と
恥ずかしそうに挨拶を伝える
その声のように、
小さな手は温かでした。
静かに寝室のドアを閉めたリサは、
喜びを抑えきれずに
足をバタバタさせました。
歓声を上げないために、
何度、唇を噛みしめたのか
分かりませんでした。
二杯!
リサは、満天下に
叫びたい気持ちでした。
見よ、妃殿下を蔑視する者ども。
今日も二杯だ!
ようやく、興奮を鎮めたリサは、
この知らせを必ず伝えたい顔を探して
長い廊下を走り始めました。
初めて二人が一緒に
朝を迎えた光景を見た日は、
驚き過ぎて、危うく
心臓が止まるところでした。
呼び鈴が鳴ったので、
何気なく寝室に行ったら、
全く意外な人物である王子が半裸で
ベッドに座っていました。
ようやく、我に返ったリサが、
今日のモーニングティーは、
二杯とも大公妃の寝室に運ぶという
ニュースを伝えると、
メイド長は呆然とした顔をしました。
夫婦が同じベッドで朝を迎えるのは
至極当然のことではないか。
リサは、今、やっと
まともな夫婦の姿を見ることができて
嬉しかったけれど、他の使用人たちは
一様に当惑しました。
王子に長く仕えて来た人たちほど、
その衝撃の強度が、より大きいのを見ると
これは、
かなり特別なことのようでした。
その日以来、リサは、
どうか明日の朝のモーニングティーも
二杯でありますようにと
毎晩、祈りました。
そして数日間、
その祈りは現実のものとなりました。
最も切実に会いたかった顔を見つけた
リサは、力強く朝の挨拶をしました。
カレンは驚いて立ち止まりました。
リサは、咎められないよう、
礼儀正しくしようと努めながら
カレンに近づきました。
しかし、しきりに上を向く口元まで
隠すのは、どうしても困難でした。
リサは、
王子のモーニングティーは
別に用意しなくてもいい。
自分が、たった今、妃殿下の寝室に
二杯運んだと伝えました。
メイド長の表情がしわくちゃになった分
リサの笑みは明るくなりました。
リサは、
二人が本当に仲がいいので
私の心も満足している。
メイド長もそうではないかと
尋ねました。
しかし、カレンは、
こんな風に時間を無駄にするなと
何度、言えばいいのかと、
厳しく戒めることで、
若いメイドの挑発に応酬しました。
眉一つ動かさず、「はいはい」と
形式だけの礼儀を尽くして答えたリサは
見るからに軽快な足取りで
遠ざかって行きました。
どうして、あんな生意気な田舎者が
ここまで来られたのか。
とんでもない大公妃が
もたらした変化を考えると、
カレンは頭がズキズキして来ました。
次期国王となる王子に仕えるという
プライドが崩壊した時も
屈せずに耐えましたが、
これは本当に底なしの恥辱だと
思いました。
今までの人生がすべて
否定されるような気がした時、
カレンは、ますます
グレディス王女が懐かしくなりました。
もしかしたら、もう二度と来ない
栄光の時代への郷愁かもしれませんが。
音もなく、ため息をついたカレンは
急いで、与えられた任務を
遂行しました。
グレディス王女のメイドが
マンスター宮殿を訪れたのは、
カレンが朝食のメニューの確認を
終えた頃でした。
慌てて裏口へ走って行くと、
新しい手紙を持って来た
ジェイドが見えました。
手紙を確認したカレンは目を見開いて
本当に王女が
こんな命令を下したのかと尋ねました。
ジェイドは、
心外なことを聞いたかのように
眉を顰めて、
見て分からないのか。
王女の筆跡ではないかと答えました。
先の丸い優雅な筆跡は、
間違いなくグレディスのものでした。
だからこそ、カレンは
この手紙の内容を信じられませんでした。
あなただけを信じて待つと言うと、
ジェイドは、
カレンが返事をする前に
急いで裏口の前から離れました。
呆然としていたカレンは、
その後ろ姿が
これ以上見えなくなる頃になって、
その場を離れました。
何度も繰り返し読んで
内容を覚えた手紙は、
人目がない隙を狙って
暖炉に投げ入れました。
大公妃のスケジュールを
知らせてほしいという
最初の依頼は、
快く受け入れることができました。
スパイをすることになったという
罪悪感はありましたが、
依然として前夫に未練がある
グレディス王女を助けることが、
すなわちビョルンを助けることだと
信じたからでした。
それに、どうせ一日中、
この宮殿の塀の中に閉じこもって
過ごす大公妃には、
スケジュールと呼べるものが
ありませんでした。
しかし、これは、
事情が違うのではないかと
思いました。
カレンが焦って、
その場をうろうろしている間に、
大公夫妻が朝食室に入って来ました。
彼女と目が合ったエルナは
静かに微笑みながら
朝の挨拶をしました。
カレンは急いで頭を下げることで
その視線を避けました。
グレディス王女は、
今日の午後、大公妃を
マンスター宮殿の裏手にある湖に
連れ出してくれと命令しました。
まったく会う機会がないので、
このような形ででも場を設けようという
意図のようでした。
これを一体どうすればいいのか。
途方に暮れて視線を上げると、
朝食のテーブルに向かい合った
大公夫妻の姿が見えました。
主にエルナが話をし、
ビョルンは短い返事をする程度の会話が
ぼそぼそと続いていました。
その姿が、
とても思いやりがあるように見えるのは
おそらく窓から差し込む、
秋の朝の日差しのせいだろうと
思いましたが、長い間、その光景から
目をそらすことができませんでした。
ビョルンが外出する時間が近づくと、
使用人たちが次々と
ホールに集まって来ました。
王子は、
彼らが身なりを整えて整列した頃に
今日も見送りに出た大公妃と共に
姿を現しました。
玄関の向こうに待機中の馬車が見えると
エルナは、今日も遅いのかと、
じっと我慢してきた質問を
慎重に口にしました。
せがんだり、
駄々をこねているように
見られたくないので、
最大限、落ち着いた口調で話し、
微笑を添えることも忘れませんでした。
しばらく、今日のスケジュールを
振り返ってみたビョルンは、
「たぶんね」という短く明瞭な返事で
エルナの期待を一蹴しました。
そうなんですねと、
独り言を呟いたエルナは、わけもなく
レースのショールを留めた
コサージュのブローチだけを
いじりました。
装飾を少し減らした方が良いという
助言をしたグレディス姫の顔が
大きな造花の上に
突然、浮び上がりました。
わけもなく気後れしたエルナは、
そっと夫を見上げました。
ビョルンの好みは、
もっとシンプルで優雅な方だと、
王女は、自信満々に言いました。
どうも、
否定できない事実のようでした。
しょぼんとした顔でため息をついた瞬間
ビョルンが
エルナの方へ顔を向けました。
あっという間に起こったことなので
避ける間もなく
目が合ってしまいました。
適当にごまかせる言葉を
思いつかなかったエルナは
もしかして自分は田舎臭いだろうか。
自分は花とかレースとか、
こういうきれいなものが
好きだけれど、
あなたの目にはどう映るか、
それが少し気になると、
造花の花びらをいじる指先に
無意識に力を込めながら、
率直に尋ねました。
フィツ夫人に助けてもらったおかげで
はるかに良くなったと
自負していましたが、
それでも、たくさん足りなければ
意地を張るのをやめるつもりでした。
そのようなことを
よく知らないエルナの目にも
グレディス姫は、
自分とはかなり違う眼識を
持っているように見え、
その姿は、とても洗練されて
優雅だったからでした。
するとビョルンは、
突然、何を言い出すのかと
問いかけるように眉を顰めると、
なぜ、それを自分に聞くのか。
流行と、かけ離れてはいるけれど、
とにかくきれいなら、それでいいと
返事をしました。
ずっと緊張していたエルナの目が
丸くなりました。
エルナは、
本当に自分がきれいなのかと
確認しました。
ビョルンは、
それを知らなくて、
聞いているわけではないだろう。
過度に謙遜しているのを装った
傲慢かと尋ねました。
エルナは、
そうではないと答えましたが
どう説明すればいいのか分からず
唇を震わせました。
他の人々が自分を
どのように評するのか
分からないけれど、エルナは
そこに大きな意味を
置きませんでした。
外面的なことに重点を置くのは
下品なことだと、祖母が
数えきれないほど話していたし、
エルナは、
その教えに従って生きて来ました。
いや、
先程のビョルンの言葉を聞くまで
そうだったと思いました。
人によって、少しずつ
美しさの基準が違うもの。
だから、自分が言いたいのは、
あなたの目にも・・・と
エルナが言いかけたところで、
ビョルンは軽く笑いながら
「きれい」と言って
エルナの言葉を遮りました。
そして、
目が付いているものは、誰もが
そう思うだろうから、
妃の好きなようにしなさいと
言いました。
気が進まなそうな話し方でしたが
唇の端に浮かんだ笑みは柔らかでした。
淑女らしくという祖母の教えを
思い出そうと最善を尽くしましたが
エルナは、
顔いっぱいに広がった笑みを、
最後まで、
隠すことができませんでした。
「きれい」という、その短い一言で
心が風船のように膨らみ、
このまま空高く、ふわふわと
浮かんでしまいそうな気がしました。
エルナは、必死に口角を下げながら
お礼を言い、
あなたも本当に素敵だと、
褒めるのを忘れませんでした。
「わかっている」と、
笑みのない顔で投げかけた
ビョルンの返事は、
全く予想外でしたが。
どんな返事をしていいか分からず
悩んでいる間に、
ビョルンは馬車に乗りました。
エルナは、少し赤くなった頬を
こすっていた手を小さく振り、
名残惜しそうに、
別れの挨拶をしました。
ニッコリ笑うビョルンの顔を見ると
困ってしまうほど大きな音で
心臓がドキドキし始めました。
幸い馬車は、
エルナの顔が真っ赤になる前に
出発しました。
残念なようで幸いな妙な気分と
彼が残していった甘い言葉の余韻が
ごちゃごちゃに入り混じりました。
エルナは一歩を踏み出す度に、
そして、 一人でぼんやりと
窓の前にいる時も、
リサが髪をとかす瞬間も
「きれい」という言葉を
繰り返し思い出しました。
その記憶だけでも、今日一日、
全然寂しくなさそうだと、
バカなことさえ考えた頃、
ノックの音が聞こえて来ました。
カレンでした。
秋の日差しのせいで、
とても、思いやりがあるように
見えたとしたら、
ビョルンとグレディスが
朝食を取っている時も、
そのような機会があったはず。
けれども、
一度もそんなことがなかったから
カレンは、なぜなのかなと思って
ビョルンとエルナから
目が離せなかったのでは
ないでしょうか。
ビョルンとグレディスは、
外に出て人の目を気にする時以外は、
常に殺伐とした雰囲気だったはず。
ビョルンは、
エルナが笑顔で
ぺちゃくちゃ喋るのを聞くのが
本当に楽しくて、
とても思いやりがあるように
見えたのです。
それに、次期国王となる王子に仕える
プライドを崩壊させたのは
他ならぬ、カレンの大好きな
グレディスです。
それも知らずに、
グレディスの犬になるカレンは
愚かです。
その場面が出てこなかったので、
想像するしかないのですが、
グレディスの暴露本が出た時、
きっとカレンは地団駄を踏んだに
違いありません。
エルナは、
きれいの一言だけで
空に舞い上がるほど喜ぶのだから
ビョルンは
心の中で思っているだけでなく
実際に、褒め言葉を
もっと口に出して欲しいです。