63話 カレンはグレディスの命令に従いました。
ゆっくりと歩く馬の蹄の音と、
貴婦人たちのお喋りが
湖畔の遊歩道沿いに続きました。
もうすぐ紅葉も
全部散ってしまう。
どれほど時間が早く流れるのか。
冬が目前まで近づいて来ましたね。
このままだと、
気が付いた頃には、
年が変わっている。
ところで、レチェンの使節団は
いつラルスを発つと
言っていましたか?
アレクサンダー王子妃が
そっと話題を変えると、
約束でもしたかのように
皆の視線がグレディスに
集中しました。
美しい白馬に乗っている
グレディスは,、
ひときわ今日の快晴のように
穏やかでした。
四日後くらいだと言っていたと思う。
早く出発して、
ラルスが平穏になればいい。
グレディスに、
あんなことをした人に
マンスター宮殿まで提供するなんて
王は本当に人格者だと、
三番目の王子妃も、
それとなく一言添えました。
ビョルン・デナイスタの悪口が
数言続く間も、グレディスは
依然として本音が分からない顔で
静かに馬を走らせるだけでした。
先に馬に乗ろうと
言い出した人らしくない
態度でしたが、誰もそれを
問題視しませんでした。
あのようにするしかないのだろう。
この頃、めっきり
憂鬱で気まぐれになった
グレディスの姿は、概して、
その一言で理解されました。
あんなことをした元夫が、
これ見よがしに新しい妻を連れて
この国に
新婚旅行に来ているのだから、
その気持ちは、いかばかりか。
湖をゆっくり一周すると、
時間は、ちょうど
三時を過ぎていました。
今朝、マンスター宮殿に送った
手紙に書いた、
まさにその時間でした。
ずっと表情のない目で
前だけを見つめていた
グレディスの視線が、
微かに揺れ始めました。
まさか、あの忠実だったカレンが
心変わりしたのだろうか。
馬の手綱を握った手に力が入ると
グレディスが懸命に守ってきた
平常心が、
急速に崩れ始めました。
やってはいけないこと。
不正な方法で大公妃をスパイし、
それでも足りず、
このような謀略を企てることが
どれほど低劣なことなのか、
グレディスは、
あまりにもよく知っていました。
しかし、それでも止まらない心が
グレディスを、
ますます深い泥沼に
追い込んでいました。
もうすべての未練は捨てろ。
ビョルンと単独面談した日、
父親は諦めた顔で言いました。
微かだからこそ、
より切実な希望を抱いて
待っていたグレディスにとって、
晴天の霹靂のような知らせでした。
素敵な女性だ。大切にしていると
あのすごいビョルン・デナイスタが
自分の妻のことをそう言った。
その刃のような言葉が
自分を刺すためのものだということを
グレディスはよく知っていました。
知っているのに苦しくて、
息がよくできませんでした。
なぜ自分は彼女のように
振る舞えなかったのだろうか?
その骨身に染みる後悔と敗北感が
心を蝕んで行きました。
しかし、それ以上に恐ろしいのは、
自分に、
このような地獄を与えた相手が
まさにエルナだという事実でした。
どうしても皆を欺くことができず、
自分が
失わなければならなかったものを
すべて手に入れた、
下品な欲望を剥き出しにした
あの滅茶苦茶な女。
グレディスは冷ややかな目つきで
遊歩道を眺めました。
誰もむやみに憎んだり
嫉妬したことがなかった心に、
洗い流せない汚い染みが
刻まれた気分でした。
憎んでいる前妻を
傷つけるつもりだったなら、
ビョルンは、
完璧な選択をしたわけでした。
あそこに、
誰か来ているようだけれど、
他に来ることになっていた
客がいるのか。
その質問に奮い立った気持ちを
隠すように頭を下げたグレディスは、
一行がチラチラ見ている方向に
急いで視線を投げかけました。
造花とリボンで飾られた帽子を
かぶった女性が、
湖畔の遊歩道を歩いて来ていました。
カレンは裏切らなかった。
その事実が与える安堵と
同じくらい大きな自責の念を
飲み込みながら、グレディスは
そちらへ馬の頭を向けました。
それと同時に、
散歩を楽しんでいた女性の視線も
グレディスに向かいました。
ビョルンの大切な妻、エルナでした。
空っぽの妻の部屋を見た
ビョルンは目を細めて、
「エルナは?」と尋ねました。
遅れて王子の帰宅の知らせを聞いて
駆けつけて来たメイド長は、
精一杯、強張った表情を隠して
微笑みながら、
妃殿下は、
しばらくの間、近くの湖畔へ、
風に当たりに出かけたと
答えました。
ビョルンは「湖?」と聞き返すと
カレンは、
マンスター宮殿から
それほど遠くない・・・と
答えました。
ビョルンは、
「ああ、あそこ」と言って
軽く頷くと、妻の寝室を
ゆっくりと横切りました。
この近くに、散歩に適した
湖畔の道があるという事実が
今になって、
ふと思い浮かびました。
その程度の外出なら、
どうせ会う相手は森と湖、
あるいはリスぐらいだろうから
何の問題もありませんでした。
エルナがペチャクチャ喋る
リスの話が思い浮かぶと、
ビョルンは思わず失笑しました。
彼は、お喋りな女が嫌いで、
ベッドでお喋りな女は、さらに、
その五倍ほど、嫌いでしたが
エルナのとんでもないお喋りは
あまり気になりませんでした。
ベットを共にしている時に、
リスが食べた
クルミとアーモンドの話を
聞くという珍しい経験を
与えてくれる女だからなのかと
思いました。
大したことではないと思って
聞き流したビョルンは、
窓際に置かれた机の前に
座りました。
後を付いて来たメイド長は
適当な距離を置いた所で
立ち止まると、
事前に帰宅が早いという
連絡がなかったので
準備が不十分だったことを
謝りました。
ビョルンは、
大丈夫。
自分の気まぐれだからと
机の真ん中に置かれた
青色のノートをめくりながら、
淡々と答えました。
今日の午後に予定されていた
買収交渉を決裂させたのは
ビョルンでした。
一息つくと、
お粗末なはったりをかまし始めた
相手を我慢するには、
あまりにも晴れた日だからでした。
彼らも、数日ほど、
この空のように明晰な理性で
自分の境遇を再確認する時間が
必要なはずでした。
ビョルンは足を組んで座り
頬杖をつきながら、
「エルナはどうですか?」と
尋ねました。
ゆっくりと紙をめくる音が
平穏な部屋の空気を
鋭く切り裂きました。
カレンは、
乾いた唾を何度も飲み込んだ後、
自分があえて妃殿下を
評価することはできないと
ようやく答えました。
聞き慣れた名前で
埋め尽くされた図表を
すべて確認したビョルンは
笑みを浮かべた顔で、
「そうですか?」と
聞き返しました、
メイド長は、
「はい、王子様」と答えました。
しかし、ビョルンは
「おかしいな」と言って
エルナのノートを閉じると、
立ち上がって机にもたれかかって
なぜ、自分の目には、
すでに評価を下したように
見えるのだろうと言いました。
メイド長を見つめる目は
依然として穏やかな笑みを
浮かべていました。
マンスター宮殿の湖と面している
ガラスの温室は、王女のために
建てられたものでした。
体が弱かったグレディスは
首都の郊外にある
このマンスター宮殿で
幼年時代を過ごしましたが、
その幼い娘を哀れに思った国王は
四季を通じて
美しい花と蝶が見られる温室を
プレゼントしてくれました。
王室唯一の王女を
どれほど大切にして、愛したかを
端的に示す例といえる場所でした。
エルナは、
味を感じることができないお茶を
飲みながら、
ラルスの王子妃たちが説明する
この温室の来歴を聞きました。
さすがに、誇りを持つほど
大きくて美しい温室は、
様々な珍しい草花と蝶で
いっぱいでした。
ガラスの壁の外の季節を忘れさせる
永遠の春の世界でした。
そういえば、
レチェンからの求婚書を
受け取ったのも、この温室だったと
沈黙を守っていたグレディスは
囁くように言いました。
そして、
本当に美しい手紙だった。
あれ以上美しい手紙を
まだ見たことがない。
大公妃が受け取った求婚書も
きっとそうだったのではないかと
尋ねました。
大切な思い出を回想するかのように
明るく笑う王女のどこにも
陰りを見つけることは
できませんでした。
困惑している他の人々のことは
少しも気にしていないようでした。
偶然ではない。
エルナは確信を持って
茶碗を置きました。
マンスター宮殿に近い湖に
少しだけ出かけてみたらどうかと
勧めたのはカレンでした。
彼女は、
森と調和した水の色が美しく、
ラルス王室の人々が愛する場所で
ちょっとした散歩を楽しむ程度なら
特別な準備や許可は必要ないだろうと
言いました。
突然の親切が
かなり怪しかったけれど、
まさか、
こんなことを考えていたとは
思いませんでした。
自分がお気楽だったことに
気づいた時、エルナはすでに
グレディス王女を筆頭にした
ラルス王室の女性たちと
向かい合っていました。
エルナは、
手紙の代わりに花をもらった。
とてもきれいな赤いバラだったと
落ち着いて答えました。
初めてではないおかげか、
めちゃくちゃだった
船上のティーパーティーよりは
はるかに落ち着いた態度を
維持することができました。
グレディスは、
まさか求婚書をもらわずに
結婚したのかと言うと、それが
大変な屈辱でもあるかのように
驚いた表情をしました。
全く、
あんなに手紙を上手に書く男が
無情にも程があると言うと、
芝居がかったため息をつき
再びエルナを見ました。
エルナは、もはやその目を
避けていませんでした。
奇跡のような偶然を記念して、
お茶を一緒に飲もうという提案を
受けた瞬間、
すでに王女の目的が何なのか
分かったので、
エルナは逃げないことにしました。
この前のことは
自分の過ちだったけれど、
今日のことは違いました。
明らかな悪意の前で
身を小さくしたくありませんでした。
グレディスは、
大切にしている花を、
エルナに見せてあげると提案すると
エルナの返事を聞く前に
ティーテーブルから
立ち上がりました。
その意図を察知したエルナは
淡々と誘いに応じました。
ティーテーブルに集まった
貴婦人たちのお喋りの声が薄れると、
「どうぞ、お話しください」と
エルナが先に口を開きました。
濃い花の香りに満ちた
遊歩道を歩いていた二人は、
大きなヤシの木の下で
立ち止まりました。
グレディスは、
何を言っているのかと尋ねました。
エルナは、
自分を呼び出したのは、
自分にだけ
話したいことがあるからだと思うと
答えました。
グレディスは、
何か誤解をしているようだ。
大公妃は、
本当に花が好きなようだから、
ただ美しい花を
見物させてあげたいだけだと
弁解をすると、探るように、
ゆっくりとエルナを見回し、
華やかな笑みを浮かべました。
エルナは気を引き締めるために
しばらく視線を避けた所で、
スズランを見ました。
広々とした花壇全体が、
その花で埋め尽くされていました。
スズランをブーケにしたいという
エルナの頼みを聞いたフィツ夫人の
「ダメです」と言う断固たる返事が
甘い香りの中で蘇りました。
「絶対ダメです」と
改めて強調する彼女の声は
一段と厳しくなっていました。
その時、すでに、その理由を
何となく察しましたが、
王女の温室でスズランに向き合うと
一生グレディス王女の陰で
暮らさなければならない
半人前の大公妃という自分の境遇を
改めて実感しました。
エルナが見ている花壇を
見回したグレディスは、
本当にきれいと、
まるで何事もなかったかのように
優しく話を続けました。
グレディスは、
自分が一番好きな花だ。
大公妃もそうなのかと、
エルナの帽子に飾られた
スズランの造花を見つめながら
尋ねました。
そして、自分たちは
色々と共通点が多い。
同じ花が好きで、
同じ男が好きで・・・と
言いかけたところで、
これは少し失礼な話だと謝りました。
吐き出す言葉が残忍になるほど、
グレディスの声はさらに低く、
柔らかくなりました。
グレディスは、
ピンクのスズランもある。
ラルスにしかない貴重なものなので
帰る時に
何株かプレゼントすると言うと
次の花壇へと
先頭に立って歩き始めました。
しばらく躊躇いましたが
エルナは落ち着いて
王女の後を追いました。
平然と花の話を続けていた
グレディスは、
無意味な温室見物が終わる頃、
ビョルンが、
どれほど愛される王太子だったか
知っているかと、
本心を表しました。
そして、王冠の形をした花を
じっと見つめていたグレディスは
そんなビョルンに自分は
王冠を返したかったと言いました。
グレディスは
エルナの方を向いていましたが,
もう笑っていませんでした。
ビョルンが
世間で広まっている評判通りの
男だったら、さすがのビョルンも
ラルスに行くことは
なかったのではないかと思います。
ビョルンが行くと言っても、
ラルスの王が入国を許さなかったと
思います。
ビョルンは、
レチェンに対して負い目がある
ラルスから、
もっと搾り取ろうと思って
ラルスに来たのではないかと思います。
それは、傷物娘を
再びレチェンに嫁がせようとした
ラルスの王に復讐したかったのかも
しれません。
娘狸は、
父親がビョルンを説得すれば
エルナと離婚をして、
自分とよりを戻してくれると
思ったのでしょうか。
エルナのことを、
素敵だ、大切だと言ったのは
自分を傷つけたいからだなんて
とんでもない
勘違いをしているけれど、
ビョルンは
娘狸を傷つけようなんて、
露程も考えていないくらい
娘狸に無関心だと思います。
それなのに、ここまで
悲劇のヒロインぶって、
自分はビョルンに王冠を
戻してあげたいと言って
暗にエルナに離婚を迫るなんて
悪どいこと、この上ないです。