23話 マティアスが暴走しています。
レイラがもがけば、
マティアスは制圧し、
マティアスの束縛が強まった分、
レイラは必死に抵抗し、
二人は一つに絡み合って
転がりました。
レイラが、
しっかりと閉じていた目を
開ける度に、
目の前の風景が変わりました。
荒々しく激しい口づけは、
むしろ戦いに近いように見えました。
ある瞬間から、レイラは、
自分が今何をしているのかさえ
まともに認知できませんでした。
息ができないという恐怖と、
息をしなければならないという切迫感が
全てでした。
しかし、公爵の勢いは
さらに激しくなり、
まるで生きたまま食われる
獲物になった気分でした。
しかし、
マティアスの唇が首筋に触れた瞬間
すすり泣いていたレイラの意識が
ぱっと蘇りました。
いつの間にか鎖骨が露わになるほど
ブラウスが開いていて、
マティアスの唇が、
脈拍を打つところを
執拗に刺激している間に、
彼の手が急に胸をつかみました。
レイラは激しく首を横に振り、
マティアスのシャツを引っ張りました。
引きちぎられたシャツのボタンが、
地面に跳ね返りました。
マティアスの首筋に
レイラが引っ掻いた爪痕が残りました。
レイラの鎖骨の上にも
彼の唇が残した赤い跡が刻まれました。
その唇が鎖骨の下に動き始めると、
レイラは泣き出しました。
レイラは、
マティアスの熱気、体を触る手、
この恥ずかしくて見慣れない感覚を
全く、理解できなかったので
とても恐怖を感じました。
しかし、幸いにも
彼はそれ以上進まず、
マティアスは片腕で体を支えて
レイラを見下ろしました。
彼の息は、まだ荒いけれど、
彼の目は、
情欲に襲われた男のようには見えず
レイラが落としたコインを
踏んだ日のように、
平然と鳥を撃った瞬間のように、
ただ深くて静かでした。
その事実が与える侮蔑感に
レイラの顔がさらに赤くなりました。
マティアスは、
ゆっくりと瞬きしました。
呼吸が多少落ち着いてきました。
マティアスは、
風になびく金色の髪を凝視しながら
握りしめていた一握りの土を落とすと
レイラの体の上から降りて
地面にどっかり座り、
木陰に横たわってすすり泣く女と
洗濯物がはためいている庭と
古い小屋と、このありえない世界で
めちゃくちゃになった姿で
座っている自分を、
じっくり見ました。
マティアスは、額の髪を撫でながら
低い声で失笑しました。
レイラは体を丸く丸めて
息を整えていました。
埃だらけになって震える姿を見る
マティアスの笑いは
さらに虚しくなっていきました。
マティアスはため息をつくと
濡れた唇を、手の甲で
ゆっくりと拭いました。
微かに血が付きました。
何でもない、たかが君なんかに
また視線を戻した時、
レイラは木の下まで逃げていて
拾った木の枝を震える両手で
ぎゅっと握りしめたまま、
涙を流しながら
彼を睨みつけました。
馬鹿げたことをする女性から
視線を逸らすと、
マティアスは体を起こしました。
そして、実は、この手で
彼女の細い首を
絞めたかったということを
彼女は知らないだろうと思いながら
躊躇うことも、急ぐ気配もなく
背を向けました。
ベルクの夏が短いことを
マティアスは、
あまりにもよく知っていました。
ヘルハルト公爵の姿が
これ以上見えなくなると、
ようやくレイラは
体を起こすことができました。
拾った眼鏡をかけて、震える両足で、
ふらついては休むを繰り返しながら
小屋に向かって歩きました。
いっそのこと、
地面に落ちるべきだったという
深い後悔とともに、
どっと涙が溢れ出て来ました。
手の甲やエプロンの裾で
いくらこすっても
唇に残った恐ろしい感覚は
なかなか消えませんでした。
ようやく、水道にたどり着くと
レイラは、
力いっぱいポンプを押しました。
バケツの外に飛び出した水が
服を濡らしても
気にしませんでした。
そして、首を振りながら
何を否定しているのかもわからずに
「違う」とう言葉を呟きました。
バケツの水がいっぱいになると
レイラは、
何かに追われているかのように
焦った目つきで
周囲を見回しました。
全てが、レイラが愛してやまない
そのままの場所だったのに
レイラの胸は、まだ不安そうに
ドキドキしていました。
何を否定しているのか、
何を恐れているのか
分からなかったけれど、
それを避けて
逃げなければならないという
事実だけは明らかでした。
眼鏡を外したレイラは、
繰り返し顔を洗い、
赤い跡がまだらに残った
首筋をこすり、
耳を洗いました。
しかし、あの男が残した感覚は
依然として鮮明でした。
ぼんやりと
空を見上げていたレイラは、
バケツを持ち上げ、
頭から冷たい水を浴びました。
体が震えましたが
それでも、残っている記憶に
うんざりしたレイラは、
ブルブル震えながらも、再び水を汲み
今度は水で口の中を洗い流しました。
水を吐けば
記憶も捨てられると思いましたが、
あの変で、とんでもないことが
しきりに思い出されました。
しきりに口をゆすいでいたレイラは
つい、その水を
飲み込んでしまいました。
咽ながら、
今にも泣きそうな顔で
レイラは再び水を汲みました。
マティアスは、バラの花壇と
邸宅に続く大理石の階段が
交差する境界で立ち止まりました。
埃を払っても、
あちこち跡が残りましたが、
そんなものはどうでもよく、
一歩一歩離れるほど、
ますます鮮明になる記憶が問題でした。
レイラを胸に抱いた時、
発情した獣のように
彼女が欲しいという
空腹感に似た渇望を覚え、
すべての理性的な判断が消えました。
驚くほど何も知らなかったレイラが
泣かなかったら、
たかがそんな女に狂って、
低俗に暴れる自分を容認できたなら
むしろ、
この恐ろしい欲望の果てを見たいと
思いました。
どうせ無意味だし、虚しいし、結局は
つまらなかっただろうけれど。
顔を上げると
日差しの中に立つ邸宅が見えました。
そして、庭の向こうの森は
何もない、何でもない、
寂寞とした世界。
美しい女性に対する
つまらない興味と欲望に
動揺した自分が滑稽なほど
取るに足らない何かを消すように
マティアスはゆっくりと目を閉じ、
再び目を開けると、
むしり取るように、
バラを握り締めました。
彼の手の中から立ち上がる
つぶれた花の濃い香りは
彼女の体のにおいに似ていました。
むしり取り、握り潰し、投げ捨てるを
ゆっくり繰り返しているうちに、
彼の足もとに、
裂けたバラの花びらが
散らばって行きました。
その花びらの上に、
この庭を行き来していた
女の子の記憶が、
一つ二つと浮かんで来ました。
アルビスに戻るたびに、
子供はいつも少しずつ成長し、
その子がいる風景には
バラが咲き乱れていました。
そして、子供が成長して女になった
その時間が、連続した場面のように
脳裏をかすめて通り過ぎました。
しかし、結局は何でもない。
バラの香りが濃く染み込んだ手で
唇を拭ったマティアスは
ちぎれた花びらの上に
足を踏み出しました。
階段を上って
邸宅の明るい光の中に入るまで、
マティアスは
一度も後ろを振り返りませんでした。
部屋の中が暗くなり始めても
カイルは明かりをつけず、
窓際に置かれた椅子に
深く寄りかかって座ったまま、
空だけを眺めました。
アルビスの小屋から戻って来て以来
ずっと、この状態でした。
レイラと彼は、
何気なく昼食を一緒に取りました。
彼女が、いつものように行動しようと
努力しているので、
カイルもそうしました。
けれども、その瞬間は
決して普段と同じではなかったし、
彼が答えを見つけられなかったら
結局レイラを
失うことになるということを
知っていました。
いつまでも良い友達でいるために
自分たちが
離れなければならないという
レイラの言葉の意味が何なのかは
ようやく理解できました。
しかし、カイルは、いつまでも
彼女のそばにいることになっても
良い友達になりたくは
ありませんでした。
だから、これ以上先送りできない。
結論が出ると、カイルは
断固として立ち上がりました。
レイラとの楽しい日々を
台無しにしたくなくて
隠していた気持ちを
今は出す時が来ました。
深呼吸をしたカイルは
父の書斎へ向かい、
その扉の前で身だしなみを整えると
再び息を整えました。
公爵邸のパーティーで、
母親が紹介した
貴族の家の令嬢たちの意味するところを
カイルは知っていました。
早くも婚約や結婚などを考える母親を
理解できませんでしたが、
今日はその気持ちを、
むしろ有難く思いました。
自分は君を絶対に失わないし
離れたりもしない。
どうして、自分たちに
そんなことができるのか。
カイルはレイラに伝えた言葉を思い出し
力を込めて扉を叩きました。
入室を許可した父親の
いつものように温かくて
慈しみ深い声に勇気づけられ
カイルは書斎の扉を開けました。
笑みを浮かべた顔で
息子を迎えてくれた父親の前に
姿勢を正して立ったカイルは
父親に話があると告げました。
いつもとカイルの様子が違うので、
かなり深刻な話なのだろうと
父親は指摘しました。
カイルは勇気を出すために
拳を力いっぱい握りしめました。
どうせ近いうちに
言おうとしたことだと
自らを励ましもしました。
来年、カイルは
大学に入学するために首都に発ち
レイラはここに残って先生になる。
カイルは、ずっと前から
レイラのそばに
自分がいない日が来るという事実が
納得できませんでした。
そして、カイルは、
自分たちが一緒に大学へ行き
一緒に勉強して、自分は医者に、
レイラは鳥を研究する科学者になり
今までそうだったように、
友達であり恋人であり、家族として
一緒に生きて行ったらどうだろうかと
考えました。
カイルは、
母親が、もう自分の結婚を
考えているようだと言うと、
エトマン博士は
愉快な笑いを浮かべながら、
あの日、母親が
少し先走っていたけれど
あまり気にしないように。
母親の気持ちは理解できるけれど、
自分の考えは違う。
急ぐ必要はないと言いました。
しかし、カイルは
断固とした目で父親を見ながら
自分も結婚を考えたいと伝えました。
驚く父親に、カイルは
むしろ気楽な気持ちで、
レイラと結婚して
一緒に大学へ行きたいと伝えました。
マティアスがベルクにいるのは夏。
ベルクの夏は短い。
つまり、
レイラのそばにいる期間も短い。
そして、自分の住む邸宅は
光り輝いているけれど、
レイラの住む森は寂寞としている。
そして、レイラは何でもない女。
マティアスは、
自分にそう言い聞かせることで
自分の感情に
蓋をしようとしているのだと
思いました。
一方のカイルは
自分の気持ちを隠していたら
ダメだと思って、
父親にレイラと結婚したいと
打ち明けた。
しかも、レイラが鳥の科学者になる
未来まで考えてあげている。
マティアスな不健全な愛より
カイルの明るい未来が待つ愛を
応援したいです。
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いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
まだまだ寒い日が続いていますが、
日増しに日が伸びて、
日差しが強くなって来ただけでも
何となく嬉しくなってきます。
そして、箱買いした
玉ねぎの芽が出ているのを見ると
春もそれ程、遠くないことを
感じます。
それでは、今日が皆様にとって
良い日となりますよう
お祈り申し上げます。
次回は、明日、更新します。