981話 外伝90話 ゲスターとアトラクシー公爵の目が合いました。
◇ひとまとめに言うと馬鹿◇
ゲスターと目が合うや否や、
アトラクシー公爵は
彼を攻撃した人らしくない
笑みを浮かべて、先に黙礼しました。
忌まわしいと、トゥーリは
小さな声で彼を罵りました。
トゥーリは、忌まわしさでは
自分の坊ちゃんが、タリウムで
指折りの実力者であることを
知りませんでした。
悪口を言っていたトゥーリは
横を見ると、ゲスターも
優しい笑みを浮かべているのを見て
ギョッとしました。
驚いたのはトゥーリだけではなく
アトラクシー公爵も、ゲスターが
恨む気配さえ見せなかったのが
意外だと思いました。
ゲスターのか弱い性格は有名なので
アトラクシー公爵は、
ゲスターが泣いたり、
悲しんだりするだろうと考えました、
それなのに、
この状況で笑っているので、
公爵は驚きました。
ロルド宰相の息子は
一体誰に似ているのかと思ったけれど
やはり、その血は
どこにも行っていないと呟きました。
他の大臣たちが
一人二人と外に出てくると、
アトラクシー公爵は
別の道を歩いて行きました。
大臣たちは、
ひそひそ話しながら出てくる途中
ゲスターを発見すると、
皆、多様な表情を浮かべました。
ロルド宰相一派は気の毒そうな表情。
アトラクシー公爵一派は
小気味良さそうな表情でした。
中立派は、もっと表情が多様でした。
しかし、トゥーリは先程より
雄々しくありませんでした。
トゥーリは貴族たちが
しきりにこちらを見ると、
気勢がそがれ、
宰相は、会議室に
ずっと残っているようだけれど
坊っちゃんは、
部屋に帰っていた方がいい。
皆、自分たちが、
何かの見せ物だと思っているようだ。
自分が待って、宰相が出てきたら
坊ちゃんの部屋へ連れて行くと
言いました。
しかし、ゲスターは首を横に振り
自分は父を待っているのではない。
皇帝に会うと言いました。
トゥーリは目玉が落ちそうなほど
目を大きく見開きました。
彼は、ゲスターが
ロルド宰相に会うために
会議室に来たのだと
思っていたからでした。
トゥーリは、
皇帝は、怒っているのではないか。
もしかしたら皇帝が、坊ちゃんに
苦言を呈するかもしれないと
心配しましたが、ゲスターは
そんなことを言ってはいけない。
皇帝は
自分を信じなければならないと
返事をしました。
トゥーリは驚きすぎて、
ゲスターの話し方が、いつもより
はっきりしていることに
気づきませんでした。
それでもトゥーリは、
再びゲスターを止めようとしましたが
その前に、ついに
ロルド宰相が出て来ました。
彼はゲスターを見るや否や
近付いて来ましたが、
宰相が口を開く前に、
ゲスターは「後で」と言って、
彼の横をすり抜け、
歩いて行きました。
宰相は当惑して振り返りましたが
すでにゲスターは
会議室の中に入っていました。
トゥーリは振り返って
宰相に頭を下げました。
宰相はその姿を見て
目頭を赤くしました。
自分の息子は、
今あまりにも心が傷ついていて
誰かを見分けようとさえ
しないのだろうと嘆きました。
宰相はゲスターが自分に
「後で」とはっきり言って
行ったことは、すっかり忘れて、
再びアトラクシー公爵を罵りました。
しかし、ゲスターは、
後ろで父親が何を考えているのか
少しも気にしませんでした。
彼の全神経は会議室の中にいる
ただ一人にのみに注がれていました。
ゲスターが大股で扉の中に入ると、
後片付けをしていた秘書たちは
皇帝とゲスターを
交互にチラチラ見ました。
ラティルは、
秘書たちの目の動きが気になり
視線を上げると、一歩遅れて、
ゲスターが入って来たことを
発見しました。
ラティルは、
今日ずっと読んでいた会議の記録を
脇に置いて、
ゲスターを呼びました。
そうでなくても、
夕方にゲスターを訪ねて
今回の会議の話を
聞かせるつもりだったからでした。
ところが、ゲスター自ら
訪ねて来てくれました。
しかし、うまくいったとは
思いませんでした。
ゲスターは、
自分への濡れ衣が晴れたかどうか
気になって来たと告げると
固い表情で
ラティルの前に近づきました。
ラティルは、秘書全員に
席を外すよう指示すると
ゲスターの手を握りました。
ゲスターは緊張した目で
ラティルを見つめました。
ラティルは
喉が渇いてきました。
これを、どう話せばいいのか
悩みました。
ゲスターは、
ラティルが躊躇うのを見ながらも
まさか、ラトラシルは
自分を疑わないだろうと
希望を捨てませんでした。
彼は、すでに事件が起きる前に、
ラナムンとアトラクシー公爵の
怪しい行動について、ラティルに
告げ口していたからでした。
ラティルはゲスターに
思ったより、
大臣たちの反発が強い。
自分の考えでは、
大臣たちが少し落ち着くまでの間、
しばらく、ゲスターは
人目を避けていた方が良いと思う。
ゲスターが避妊薬を使ったという
明確な証拠がないので、
2、3ヶ月が過ぎれば、
皆、静かになるだろうと告げました。
ラティルの話を聞いて、ゲスターは
冷たい水を浴びせられた気分に
なりました。
彼はいつものように
弱々しい表情をする代わりに、
真顔になってしまいました。
ラティルは、
さらにゲスターの手を
強く握り締めると、ゲスターが、
避妊薬を飲ませなかったことは
知っている。
けれども、自分一人が知っていても
大臣たちを
落ち着かせることはできないと
申し訳なさそうな声で話しました。
しかし、ゲスターは真顔のままでした。
ゲスターは、
しばらく沈黙した後、
皇帝が自分を信じてくれるなら、
大臣たちが何と言おうと、
自分を追い出さなくても
いいのではないかと抗議しました。
ラティルは、
なぜ、自分がゲスターを追い出すのかと
尋ねました。
ゲスターは、
人目を避けろいうことは
宮殿の外に出ていろということ。
すなわち、
追い出すということではないかと
主張しました。
ラティルは唇を震わせました。
全く間違った言葉では
なかったからでした。
もしラティルが、
ゲスターが濡れ衣を
着せられたことだけを知り、
ゲスターの、あの「計画」について
知らなかったら、
人目を避けろとは言わず、
人目を防ぐようにと言っただろう。
しかし、ラティルは
ゲスター本人の本音を通じて、
彼の恐ろしい計画について
知ってしまいました。
このような状況で、ゲスターを
他の側室たちと一緒に
過ごさせることはできませんでした。
そのため、この際、
ゲスターが宮殿の外に出て
自分を振り返る時間を持つことを
願いました。
しかし、これはラティルの事情でした。
ゲスターは、ラティルが
彼の凶暴な計画のことを
あらかじめ気づいたことを
知らないので、彼女が
騙されやすい人だと思いました。
ゲスターは、
普段より、はるかに低くなった声で、
皇帝は自分を全く信頼していない。
あらかじめ、ラナムンが
自分に対して謀略を企んでいることを
知らせておいたのに、
頭の悪い奴らの一言に騙されるなんて、
こんなに馬鹿だとは思わなかったと
非難しました。
ラティルは悲しそうな目で
ゲスターを見ていましたが、
馬鹿という言葉に目を見開きました。
「何だって? 馬鹿だって?
この野郎、私に馬鹿だと言った?」
ゲスターの片方の口の端が
斜めに上がりました。
今回、彼はラティルに
心から失望しました。
もし、前もって
ラティルに知らせなかったら
今より、がっかりすることは
なかっただろうかと考えました。
ゲスターは、
騙されやすく、優柔不断で
義理は紙よりも薄っぺらな
ラトラシル。
この全てを、ひとまとめにして
馬鹿だと表現することに
感謝しろと言いました。
その言葉に、
ラティルの顎が落ちました。
ゲスターが
猫をかぶっていたということは
知っていました。
しかし、ゲスターは、
これまで悪い性格を見せていた時、
ランスターの口を借りました。
このように彼の声で
露骨に意地悪な性質を表わしたことは
ありませんでした。
ラティルの頭の中で
可愛い羊のようなゲスターの姿が
ガラガラと崩れました。
ラティルは口を閉じることができず
ゲスターをぼんやりと
見つめるだけでした。
しばらくして、
怒りがこみ上げて来たラティルは
扉を指しながら、
悪口を簡潔にまとめて行ってくれて
本当に感謝している。
悪口を全部言ったのなら、
もう帰ればいいではないか。
自分は、
ゲスターがひっくり返したゴミ箱の
後処理をしなければならないと
言いました。
行き交う言葉が乱暴なので、
あっという間に2人の間の雰囲気も
険悪になりました。
ラティルは、ゲスターに対する
申し訳ない気持ちが
すっかり消えました。
ゲスターはゲスターで、
ラティルが本当に、
身勝手な浮気者だとしか
思えませんでした。
どうしてあんな性格が意地悪な
詐欺師に惚れて、
時間を無駄にしてしまったのだろうか。
ゲスターは、
あの性質の汚い人間に
よく見られようとして、
全力を尽くして
善良なふりをした過去の日々が
悲しく感じられました。
500年前、あの詐欺師が
彼を騙していなかったら、
彼が幼い頃、
あの詐欺師の皇女が、可愛い姿で
塀をよじ登っていなかったらと
思いました。
ラティルは、
ゲスターが一生懸命、
自分を睨んでいるけれど、
また悪口を言うつもりなのかと
皮肉を言いました。
ゲスターは、歯ぎしりしながら
背を向けました。
扉の外に出る前に、
ランスター伯爵は我慢できなくなり
ラティルに近づいて、
「ロード、おまえは詐欺師だ」と
はっきり言いました。
ラティルは、
猫かぶりのくせに、
誰が誰に詐欺師だと言うのかと
反論しました。
ランスター伯爵は、
イメージ管理をするのは
間違いではないけれど、
詐欺は間違いだ、この浮気者と
罵倒しました。
ラティルは、
今、何を、うまくやったと
言ったのかと尋ねると、
ランスター伯爵は、
それは自分が言いたいことだ。
ラナムンが自分を騙すのを
見ていながら
彼の肩を持つなんて。
よし、勝手にしろ。
持っているものは顔だけの
ラナムンを連れて、
どこで、どれだけうまくやれるか
見てみようと言うと
ランスター伯爵の姿が
目の前で消えました。
ラティルは、
しばらく鼻息を吐きながら
息を切らしました。
「いかれた奴!」と罵倒すると
ラティルは鐘をつかんで
乱暴に振りました。
席を外していた秘書たちが、
再びどっと入って来ました。
「冷たい水!」とラティルが叫ぶと
扉の近くにいた秘書が出て行って
冷たい水を持って来ました。
ラティルは一気に水を飲み干した後
ドンと音を立てて、
コップを壇上に置きました。
◇別宮へ去るゲスター◇
ラティルは、ゲスターが
寂しがるかもしれないとは思ったけれど
ここまで喧嘩することになるとは
思いませんでした。
この2、3か月の間に、
大臣たちを落ち着かせるので、
少し席を外していろと言えば、
ゲスターは、ただ分かったと
返事をすると思いました。
それに、2、3ヶ月、
人目を避けろと言ったけれど、
ゲスターには、狐の穴もあるので
公には離宮へ行くけれど、
他人の目を避けて
宮殿を行き来することもできました。
ところが人のことを馬鹿だとか
騙されやすいとか言って
行ってしまいました。
本当に、彼が犯人だと思って
追い出すわけでもないし、
ただ大臣たちが、落ち着くまで
行っていろと言っただけなのに。
深夜、 ベッドに横になっても、
ラティルは
ゲスターと喧嘩したせいで
眠ることができませんでした。
私が馬鹿だって!
優柔不断だって!
結局、ラティルは、夜明け直前に
ようやく眠ることができました。
しかし、しばらくして
再び起きなければならなかったので、
寝て起きた時は、眠る前よりも
さらに気分が悪くなりました。
執務室に入り、秘書から、
ゲスターが朝早く荷物をまとめて
別宮に発ったと報告を聞くと、
ラティルの胃の調子は
少し落ち着きました。
ラティルは、
ゲスターが去る時の表情について
尋ねると、秘書は、
とても悲しんでいたそうだと
答えました。
その話を聞くと、
ラティルは怒りが完全に治まり、
代わりに申し訳ない気持ちが
再び湧き起こりました。
分かったと返事をすると、
ラティルはため息をつき、
一晩中、机の上に積まれた書類を
取り出しました。
確かに、悔しかっただろう。
悔しかったから怒ったんだ。
ゲスターは側室を攻撃する計画を
立てはしたけれど、
まだ実行したわけではない。
ゲスターの立場からすれば
悔しいかもしれない。
人を送って慰めてあげなければ。
子供ができたと大喜びしていたのに。
しかし、その夜、
ほぼ一日かけて
沈静化したラティルの怒りは、
以前より倍に噴き上がりました。
一日中、ゲスターが
子供を育ててはいけないと主張する
中立派とアトラクシー公爵一派の
大臣たちを押さえつけていたため、
ラティルは疲れ果てて、
夕食も食べずに寝室に入りました。
ところが、風呂から出てみると、
グリフィンが、ベッドの上で
ライオンの尻尾を振りながら、
「ロード!大変です!
ゲスターのことです!」と訴えました。
ゲスターに、面と向かって
馬鹿、騙されやすい、
優柔不断と言われ、
彼が側室に対して謀略を
企てていることを知っても、
悲しそうな顔をしていたと
聞いただけで、怒りが収まって
ゲスターに申し訳ないと思う
ラティル。
ゲスターの言った通り、
ことゲスターに関しては
騙されやすい性格なのだと
思いました。