989話 外伝98話「帰って来て、私のウサギ」と書かれた横断幕にゲスターは腹を立てました。
◇言葉はめちゃくちゃだけど
ゲスターは、
窓枠をバンと叩きつけました。
愛している。会いたい。恋しい。
私には君が必要だ。
ラトラシルが、どんな言葉で
彼に戻って来るように
言って来るか、指折り数えて、
どれだけ熱心に待っていたことか。
それなのに、
「帰って来て、私のウサギ」だなんて。
2人でいる時に、囁くわけでもなく、
あんなに公然と
横断幕までかけるなんて!
これは、公然と彼に
恥をかかせていることに
外なりませんでした。
以前なら、
それでも無理に良い方へと考え、
ラトラシルは、
自分の性格を知らないからと
受け流したはずでした。
しかし、今やラトラシルは、
彼の性格が穏やかではないことも
知っていました。
その時、
「坊ちゃん、外に変な人たちが・・」
と言いながら、トゥーリが
中に入って来ましたが、
ゲスターの姿を見て、
驚いて立ち止まりました。
ゲスターは、
努めて表情を管理してから
振り向きました。
しかし、唇の痙攣を止めるのは
困難でした。
面食らったトゥーリは、
どうして怒っているのかと
尋ねました。
ゲスターは表情を隠すために
トゥーリに背を向けて、
話を続けるよう促しました。
トゥーリは、
その後ろ姿にうろたえながら
外に、
皇帝が送って来た人々が来ている。
皇帝は、大々的に坊ちゃんを
迎えに来たようだ。
坊ちゃんをあざ笑った宮廷人たちが、
もう口もきけずに黙っていると
話しました。
ゲスターが黙っていると、
トゥーリは、
持ってきた横断幕が、
少しアレだけれど、
「私のウサギ」は、
皇帝が坊ちゃんを呼んでいる
ニックネームなんですよね?
と尋ねると、照れくさくて、
ぎこちなく笑いました。
ゲスターは、瞬く間に
耳まで真っ赤になりました。
彼は唇を噛みました。
これは、まったく
ロマンチックではありませんでした。
その反応を見たトゥーリは、
坊ちゃんは、あまり
あれが好きではないようだ。
確かに、少し
からかってるような気がする。
坊ちゃんが怒って、
帰らないと言ったらどうしようと
心配しました。
トゥーリは、
皇帝が悪い意味で
ニックネームを使ったのでは
ないだろうと慰めました。
それでも、ゲスターは、
背を向けて立っているだけでした。
トゥーリは、
坊ちゃんの体の具合が悪いので、
後で帰ると伝えてもらおうかと
渋々尋ねました。
その間に、皇帝の気持ちが
冷めてしまうのではないかと
心配しましたが、
それでもトゥーリが
一番優先しなければならないのは
ゲスターの健康と気持ちでした。
ゲスターは「そうして」と
答えました。
すぐにゲスターが、
皇帝に会いに行くことを拒否すると
トゥーリはしょんぼりして
出て行きました。
ゲスターは窓の前まで歩いて行き、
窓ガラス越しに下を見下ろしながら
鼻で笑いました。
ラトラシルは、
きっと自分をあざ笑うために
あんなものを送って来たのだろう。
自分が
イメージ管理することを知って、
からかおうとしたのだろうと
ゲスターは思いました。
彼は、トゥーリが、
皇帝が送って来た人たちに
近づくのを、
落ち着いて待ちました。
しかし、トゥーリの歩く速度が
思うほど速くないので、
ゲスターは我慢できなくなり
自分も外に出ました。
絶対に、あの横断幕を
破るつもりでした。
彼は巧みに姿を消して
兵士たちの間に入りました。
これを知らない兵士たちは、
ゲスターが、
自分たちの間を通っているとは
想像もできず、
ひそひそ話をするのに
忙しくしていました。
どうして、皇帝が、
こんな言葉を持って行けと
言ったのか分からない。
持っているのが恥ずかしい。
だから、わざと到着してから
広げろと言ったのではないか。
皇帝はゲスター様と、
普段こんな言葉を交わすのだろうか。
ラナムン様の心中は
穏やかではないだろう。
ラナムン様の家門が、
あれだけゲスター様を挑発して
攻撃したのに、むしろ、皇帝は、
公然とゲスター様を
連れ戻すと宣言した。
今頃、大臣たちが
大騒ぎしているはずだ。
ゲスターは
横断幕を破ってしまおうと
手を上げましたが、
その言葉を聞いて、
再び、手を下ろしました。
ラトラシルは、公然と、
自分を連れ戻せと言ったのか?
彼の固い表情が少し和らぎました。
ゲスターは手を止めたまま、
別宮の宮廷人たちが集まっている所を
チラッと見ました。
彼らも、ずっと
ひそひそ話していましたが
一様に不安そうな顔をしていました。
ゲスターがそちらに近づいてみると、
彼らもゲスターが
寵愛を取り戻したことを
心配していました。
もちろん、彼らは
兵士たちとは違って、
ゲスターを冷遇したことと、
彼が宮殿に帰って、
自分たちのことを悪く言った後、
八つ当たりするのではないかと
心配していました。
ゲスターは、
先程、トゥーリが言ってくれた言葉を
思い出してニッコリ笑いました。
今、考えても、ラトラシルの言葉は
めちゃくちゃでしたが、
これ見よがしに、
自分を呼びに来たのは気に入りました。
ゲスターの心は、少し和らぎ、
ひとまず帰ってみようかと
思っていると、
トゥーリが階段の下に降りて来て
兵士たちが立っている所へ
走って来ていました。
そして、申し訳ないけれど
坊ちゃんの体の具合が悪いと
伝えようとしていました。
すでに気が変わったゲスターは、
すぐにトゥーリに近づいて
彼の肩をつかみました。
トゥーリは、
ゲスターが来たことを
知らなかったので、悲鳴を上げ、
いつ、ここに来たのかと尋ねました。
兵士たちも驚いてゲスターを見ました。
誰もゲスターが、
ここに現れたのを見ていなかったので
信じられませんでした。
兵士たちは、ゲスターが
すごい黒魔術師であるという噂を
実感すると、鳥肌が立ちました。
ゲスターは、
まだ赤くなったままの耳を
髪の毛の間に隠すると、
照れくさそうに、
体の具合が良くなったので、
帰ってもいいと思うと
告げました。
トゥーリは目をパチパチさせました。
ゲスターが、急に気が変わったのが
理解できない表情でした。
早速、ゲスターは、代表に
いつ帰ればいいのかと尋ねました。
◇処分◇
一羽の伝書鳩が、
宮殿の中に飛んで来ました。
そして数日後、ラティルは、
彼女が送った人々に従って、
ゲスターが素直に出発したという
知らせを受けました。
ラティルは安堵し、
自分が送ったメッセージが
気に入ったようだと言いました。
隣にいたタッシールは
意外だと思いました。
彼は、ラティルが準備した
横断幕を見れば、
ゲスターは、
絶対に帰って来ないと思いました。
仲が良かった時ならともかく、
今、ゲスターは皇帝と
喧嘩をしているはずだからでした。
タッシールは、
ゲスターの好みは変わっていると
言いました。
ラティルは同意すると、
プッと笑って、
首を横に振りました。
その姿は、ゲスターについて
見抜いている人のように見えました。
皇帝の自信満々な態度を見て、
タッシールは
微妙な笑みを浮かべました。
ゲスターは
戻ってくることにしたけれど
やはり、横断幕は
気に入らなかったのではないか。
ゲスターが
戻って来ることにしたのは
現実的な理由があるのではないかと
考えました。
しかし、このようなことに限って
タッシールは、決して
ラティルに助言しませんでした。
ラティルは、
とにかく、ゲスターについては
一息ついたので、残っているのは
百花とラナムンくらいだと
言いました。
タッシールは、
どのように処理するか決めたのかと
尋ねました。
ラティルは、
タッシールはどうしたいのかと
逆に質問しました。
タッシールは、
自分の意見も聞くつもりなのか。
決めるのは皇帝だと
意外だという風に答えました。
ラティルは、百花のせいで、
タッシールも被害を受けたからと言うと
どうしたいかと尋ねました。
タッシールは、
正直に言うと、知らせたくないと
答えました。
ラティルは、その返答に驚き、
知らせたくない理由を尋ねました。
タッシールは、
皇帝は皇帝の仕事をしている。
自分は、別に私的に報復する。
皇配としては、皇帝のために
我慢しなければならないと
答えました。
全く、率直だと、
ラティルはタッシールの返事に
驚きました。
しかし、よく考えてみると
一理あるので、
分かった。 聞かないと
言いました。
ところが、タッシールは
その喜ばしい返事に、さらに驚き、
見逃してくれるのかと尋ねました。
ラティルは、タッシールが
自分の我慢の限界を
よく知っているからと答えると、
一人でブツブツ呟きながら
書類に視線を落としました。
タッシールは不思議そうに
ラティルの頭頂部を見下ろしました。
彼はラティルが、
気が利くのか利かないのか、
何年見ても、
見当がつきませんでした。
自分たちは夫婦とはいえ、
一般的な関係ではなく、
くっついている時間が
あまり長くもなく、
お互いの本音を明らかにすることも
難しいので、相変わらず、
彼女が不思議だと思いました。
視線を感じたラティルは、
なぜ、そんなに
じろじろ見ているのかと
尋ねました。
タッシールは、
ニッコリ笑いながら、
自分の私的な報復はさておいて、
皇帝は、
どうするつもりなのかと尋ねました。
ラティルが「百花には・・」と
話を続けようとしましたが、その前に
侍従が、
ラナムンの来訪を告げに来ました。
ラティルは立ち止まって
タッシールを見ました。
彼は、微笑みながら
喧嘩するなら、
見物してもいいかと尋ねました。
ラティルは拒否しました。
ラティルがラナムンを入れると、
タッシールは残念そうな様子で
ラナムンの肩を叩いて
出て行きました。
そうしながらも、
チラッと見せた表情が
あまりにも妙なので、
ラナムンは眉を顰めて振り返りましたが
すでにタッシールは出て行って
扉が閉まった後でした。
扉が閉まる音がすると、
ラナムンは、
急に胸が塞がるような気がし、
静まり返った周囲が
重く感じられました。
そんな中、
ラティルが机を叩く音がしたので
ラナムンはため息をついて
皇帝に近づきました。
机の前に近づいた彼は、
挨拶をする前に、
その上に置かれたメモを見て、
立ち止まりました。
伝書鳩が運んできた小さなメモの上には
ゲスターが
出発したという知らせが
書かれていました。
戻って来るのかと、
ラナムンは苦々しく呟きました。
ラティルは机を叩くのを止めました。
実際、ラティルは、ラナムンが
一度は自分に会いに来ると思ったので
ラナムンの訪問に
それほど驚きませんでした。
むしろ、ラナムンは、
思ったより遅れてやって来ました。
ラティルは。
犯人が誰なのか分かったので
呼び戻さないと可哀想ではないかと
言いました。
ラナムンもは、
可哀想だと答えたものの、
彼の唇は歪みました。
今回は濡れ衣だったけれど、
彼は、ゲスターが、
人を可哀想にさせる人であって、
ゲスター自身が
可哀想な人になることはないのを
知っていましたが、
皇帝はこれを知らないのだろうかと
思いました。
しかし、ラナムンは
この部分には触れず、
真犯人を知っていたのかと
尋ねました。
ラティルは「うん」と答えました。
ラナムンは数日前、皇帝が、
ゲスターを呼んだという知らせを
聞くや否や、父親に人を送り、
念のため、会議室で
避妊薬事件のことを
取り上げないようにと伝えました。
ラナムンは、忠告して良かったと
思いました。
だからといって、今は
安心する気にはなれませんでした。
ラナムンは、すぐに、この場を
離れたくありませんでした。
皇帝が、
どこからどこまで知っているのか。
真犯人のことしか知らないのか。
それとも全部知っているのか。
いずれにしても、彼は最後まで
知らんぷりをしなければ
なりませんでした。
ラナムンは、
真犯人は誰なのかと尋ねました。
ラティルは、
ラナムンの父親に聞いてみれば
きちんと教えてくれるだろうと
答えました。
ラナムンは、
なぜ、自分の父が
知っていると思うのかと尋ねました。
ラティルは、
これ以上、出しゃばるなと
アトラクシー公爵に伝えるように。
そうすれば、
自分は公爵が百花と手を組んで
ゲスターを陥れたことと、
ラナムンは、
それに関わっていないと
思うことにすると答えました。
ラナムンは、
瞳が揺れるのを隠すために
視線を下げました。
ラティルは、
ラナムンの父親は賢いので、
ここまで言えば理解できるだろうと
言いました。
ラナムンも理解しました。
皇帝は、これ以上、ゲスターを
避妊薬事件に巻き込むなと
脅していました。
ラナムンは、
羞恥心と怒りを抑えるために、
思考を空にして
呼吸だけに集中しました。
そんなラナムンを見て、
ラティルはため息をつきました。
ゲスターが
悪いことをしたわけでもないのに
ゲスターを排除しようとするなんて。
それでも以前は、
これほど仲が悪くはなかったのに。
今は、もっと悪くなったと
思いました。
ラティルが、
もう出て行けと命じると、
ラナムンは去りました。
その後ろ姿を見て、
ラティルは首を横に振りました。
アトラクシー公爵を威嚇するような
言葉を伝えましたが、
やはり、ラティルも
百花が犯人だと、アトラクシー公爵が
あからさまに告白してしまうことで
困るのは同じでした。
百花を処罰すれば
神殿と仲違いすることになる。
反面、百花を処罰せずにいれば
大臣たちの前で、
皇帝としての権威が失墜する。
そのため、ラティルは
気が進まなかったけれど、
アトラクシー公爵に、
二人とも口をつぐむことを
提案したのでした。
愚かなアトラクシー公爵。
このことを、自分に、
そっと知らせてくれていたら、
自分がアトラクシー家に報いて
ひっそり百花を罰したのに!
ロルド家と喧嘩するために、
こんなに事をこじらすなんて!
ラティルは、
しばらく息を切らしていましたが
興奮を静めるために
お茶を数杯飲みました。
気分が落ち着くと、
ラティルはザイシンを呼ぶよう
侍従に指示しました。
ラティルが、
人前でゲスターを
「私のウサギ」と呼ぶことで、
彼を怒らせたかったのか、
恥をかかせたかったのか、
本当に喜ぶと思ったのかは
分かりませんが、
結果的にゲスターが
宮殿に戻って来たので、
ラティルの作戦は
成功したということなのでしょう。
アトラクシー公爵と百花の悪巧みは
明らかになったけれど、
ロルド宰相が、
ラナムンに危害を加えたことと、
ゲスターが、バニルを
階段から落としたりしたことなど
ロルド家の悪事が明らかにされないのが
残念です。
ロルド家の方が、
狡猾さに長けているということなのだと
思います。