28話 マティアスは近衛隊の将校服務を延長しないことにしました。
もう1年、近衛隊に留まる予定だった
ヘルハルト大尉から、
延長を申請する書類の代わりに、
転役を決定する書類が届いた時、
近衛隊長のファレル大佐は
かなり驚きました。
近衛隊に残るよう
説得してみたかったけれど、
転役申請の理由が、
高齢のヘルハルト家の老婦人なので
引き留められませんでした。
マティアスと向かい合った
ファレル大佐は
穏やかな笑みを浮かべながら
彼を失うことを残念がりましたが
マティアスは、
今までのことについて
丁寧に感謝の意を伝えました。
ファレル大佐よりも、
ヘルハルト公爵の方が、
高位貴族でしたが、
公私の区別がつかない
他の貴族将校たちとは違い、
常にマティアスは、上官に対して
適当な礼儀を守りました。
ファレル大佐は、
マティアスの、その点と、
最初の赴任地として、
険しい海外戦線を選択して
功を立てた点を
高く評価していました。
大佐は、
マティアスがラッツに来た時は、
必ず会いに来るようにと言って
手を差し出しました。
マティアスは「はい」と答え、
喜んで握手に応えました。
マティアスは、このくらいで
大佐の邸宅を後にし、
車でラッツの都心に移動しました。
そこで、
さらに数人の上官に会った後、
数日間続いた、
除隊のための挨拶が終わりました。
その後、待機中の車に近づいていた
マティアスは、
道路の反対側の端を見て、
突然、立ち止まりました。
レイラとしか思えない女性が
ラッツの都心の繁華街を
歩いて来ていました。
彼の随行者が近づいて来て、
マティアスに声をかけましたが、
彼は、先に帰るようにと
命令しました。
彼の視線は、
まだ、道路の反対側に
向けられていました。
そんなはずはないけれど、
あれがレイラであることを
マティアスは疑いませんでした。
彼は、道路を渡りました。
ラッツに到着した翌日、
カイルはレイラを、真っ先に
ベルク帝国自然史博物館へ
連れて行きました。
大通りを挟んで向かい合っている
美術史博物館と自然史博物館は
ラッツの最大の誇りの一つだと
カイルは説明しました。
そしてレイラは、初日と同じように
感嘆した表情で、
自然史博物館の雄大な建物を
眺めました。
首都を訪れた女学校の友人たちは
一様に、美しい美術史博物館を
称賛しましたが、
レイラは躊躇することなく
自然史博物館を選びました。
カイルが断言した通り、
レイラにとっては
天国のような所でした。
ただ、とても大きくて広いので、
一日に、全て、
見ることができないということが
問題でした。
今日一日を全部費やし、
ラッツを発つ前に、
もう一日、時間を作れば、
一通り全て見られるだろう。
決意を固めたレイラは、
ウキウキした足取りで
博物館のロビーに入りました。
今日もカイルが
一緒に来てくれると言いましたが、
レイラは断りました。
レイラは、昨日試験を終えましたが、
カイルの試験は明日でした。
いくら、あらかじめ
勉強していたとはいえ、
試験前日に、カイルを
ここへ連れてくることは
できませんでした。
体力を蓄え、楽な靴を履き、
ノートとペンを持ったレイラは
初日に見られなかった
展示室に向かって
早足で歩き出しました。
今日のレイラは、
まるで遠足に来た子供のようでした。
マティアスは、
すでにいくつかの広い展示館を
疲れることなく、駆け回っている
レイラをじっと見つめました。
彼は適当な距離を空けて
彼女の後に続きました。
しばらくは、一体、彼女が
何をしようとしているのかが
気になり、
何をしているのかを確認したら
もう少し様子を見たくなりました。
そういえば、
首都にある大学の入学試験が
この頃、行われたような気がする。
試験を受けに来たのを見ると、
大学に行く気を固め、
カイル・エトマンとの結婚も
決めたらしいと
マティアスは考えました。
レイラは、
植物標本でいっぱいの
ガラスの陳列台の前に立ち、
何かを熱心に描いていました。
そして、
まるで宝石でも覗くような顔で
ニッコリと笑いました。
一体、標本のどんな点が
レイラを笑わせるのか、
マティアスには
見当がつきませんでした。
近づこうかと思いましたが、
そうすると、
これ以上笑わないので、
もう少し見守ることにしました。
レイラは、去年の夏と
大して変わらない姿でしたが、
少し、ほっそりした顔と
穏やかな表情など、
微妙に変化しているようで、
以前より、
一層大人っぽく見えました。
植物標本展示室を離れたレイラは、
次の展示室に繋がる通路の前で
立ち止まりました。
展示室と展示室をつなぐ通路は、
銀色に塗られた木の枝に
真っ白な羽毛が
葉っぱのように飾られていて
まるで天国のようでした。
枝のあちこちに掛けられている
色とりどりの鳥の形をした
クリスタルオーナメントは、
光を反射して、その空間を
さらに夢のように見せていました。
レイラの無邪気な感嘆が
マティアスにまで伝わって来ました。
レイラが興奮して走っていく
後ろ姿を見て、マティアスは
クスクス笑ってしまいました。
レイラは、
その美しい通路の真ん中で立ち止まり
オーナメントに向かって
思いっきり背伸びをして
手を伸ばしてみましたが、
レイラの指先は
鳥に届きませんでした。
しきりに感嘆しながら
天井を見上げるレイラに向かって
マティアスは躊躇うことなく
歩みを進めました。
レイラが、
その気配に気づいた瞬間より
少し早く、マティアスは、
背後から、
軽く彼女を抱き上げました。
驚いて顔を向けた時、
すでにレイラは宙に浮いていて
クリスタルの鳥が、
レイラの目の高さで輝いていました。
鳥のように飛んで、
どこへでも行けそうな、
目を開けたまま夢を見ているような
不思議で美しい瞬間でした。
マティアスは、
何事もなかったかのように
レイラを降ろしました。
クリスタルの感触が残った手を
背中に隠し、レイラは、
ぼんやりと顔を上げました。
その間、彼は、
ゆっくりと将校帽を脱ぎました。
昨年の晩夏の午後と同じ青い目が
彼女を映していました。
博物館のドームの下には、
軽食と飲み物を売っている
カフェがありました。
カイルと一緒に来た初日に
昼食を食べたところでした。
マティアスは先頭に立って
そこに向かいました。
その意味に気付いたレイラは、
顔を顰めながら立ち止まると、
マティアスに、
会えて嬉しかった。
自分はこれで帰ると言いました。
その言葉に
マティアスは振り返りました。
息を整えたレイラは、
彼に頭を下げました。
しかし、マティアスは
そこにいてと
レイラに命令しました。
彼女は気にせず、数歩進みましたが
マティアスは、
あっという間にレイラを追い抜き
彼女の前に立ちはだかりました。
レイラは、
こういうのは嫌だ。
どうして、こんなことをするのかと
鋭く尋ねました。
あまりにも平然としている
マティアスの態度が
レイラの怒りを煽りました。
そして、
こんなことをしてはダメだと言うと
焦るような手つきで、
肩にかけたカバンの紐を
しっかりと握りました。
すると、マティアスは
微かに笑いを込めた声で
ダメなことをしてみたいのかと
尋ねました。
レイラは、しばらく呆れて、
目だけを瞬かせていましたが
いきなり顔を顰めて
「いいえ!」と否定しました。
何と侮辱的なのか。
レイラの両手が震え始めました。
そして、両頬から熱を感じました。
平然として楽しそうな公爵の前で、
自分だけが、
頬を真っ赤にしていると思うと、
恥ずかしくて、
顔がますます熱くなりました。
マティアスは、
首都で偶然出会った
自分の領地に住む孤児に
お茶を買ってあげるという親切に
何か問題があるのかと
超然とした態度で尋ねました。
そして、これ以上、笑うことなく
冷たい目つきで、
何の問題もないではないかと
独り言のように言うと、
マティアスは、
カフェに向かい始めました。
レイラはため息をつきました。
ヘルハルト公爵を
よく知っているとは言えないけれど
あの男は、どんな手を使ってでも
望むことを成し遂げ、
それに立ち向かうほど、
さらに大きな苦境に
陥るだけだということが
分かりました。
諦めたレイラは重い足取りで
公爵の後を追いました。
コーヒーを前にして、
二人は黙っていましたが、
この静寂に耐えられなくなったレイラは
こんな所で、偶然、公爵に
会えるとは思わなかったと
苦労して口を開きました。
そして、
公爵は自然史に・・・
と質問しかけると、マティアスは
興味ないと答えて、
レイラの言葉を遮りました。
そして、こんなことに
自分が何の関心もないということと
偶然、
会ったわけではないということも
君は知っているはずだと
嘲笑うように微笑みながら
言いました。
レイラは反射的に、
「いいえ」と答えました。
全身に力が入り、
心臓の鼓動が不安定になり始めました。
むしろ公爵の同情を受ける
卑賤な孤児でありたかった。
それ以外の何にも
なりたくありませんでした。
レイラは震える声で、
自分が知っているのは、
公爵様が自分を
嫌っているということだけだと
答えました。
そして、突然浮び上がった
恐ろしい初キスの記憶を消すように
目を閉じました。
しかし、再び目を開けると
マティアスの青い目は
依然として彼女に向かっていて、
再び、あの記憶が
レイラを縛り付けました。
マティアスは微笑んだまま、
「うん、嫌いだ」と
快く認めました。
そして、もう本当に嫌いだと
言いました。
レイラに会えなくなるのが嫌で
除隊し、
偶然、街でレイラを見かけると
博物館まで後を付いて来た
マティアス。
そして、
子供のように駆け回っているレイラを
こっそり見るのを
楽しんでいたけれど、
クリスタルの鳥に
手が届かないレイラを見た時は
ただ、彼女の笑顔が見たくて、
何も考えずに
抱き上げてしまったのではないかと
思います。
しかし、彼と向かい合った途端、
レイラの笑顔が消えてしまった。
だから、マティアスは、
本当はレイラのことが
嫌いになっていないのに
嫌いになったと
言ったのではないかと思います。
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いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
鳥の形をした
クリスタルのオーナメント。
生成AIで、思い通りの画像が
作れませんでしたが、
結構、きれいにできたと思うので
掲載しました。
言葉で画像を表現するのは、
難しいと実感しました。
次回は来週の月曜日に更新いたします。