37話 バーデン男爵夫人がシュベリンにやって来ました。
全く落ち着きがないし、
優雅でないことを知っていても、
バーデン男爵夫人は気にせず、
社交的な挨拶を交わすのも省略して
あの子を返してくれと、
本論を投げかけました。
酒に酔った間抜けな顔で
彼女を眺めていたウォルターは
失笑しながら、
今、何を言ったのかと
問い返しました。
端正でない身なりに、脂ぎった髪。
顔色も悪く、しばらく会わないうちに
彼女の同年代になってしまったような
姿でした。
バーデン男爵夫人は、
文字通り、エルナを
自分が連れ戻すという意味だ。
あの良い子の評判を
台無しにした父親のそばに
エルナを、たった一日でも
置きたくないと答えました。
ウォルターは、
誰のおかげで、まだあの家に居座って
暮らしているのか知っているなら、
このような話を
むやみにしてはいけないと
非難すると、バーデン男爵夫人は
ウォルターのおかげで守った
あの家は必要ないと言いました。
エルナが都市で
どんな扱いを受けているかを知った日
涙を流しながら下した決定でした。
2人の使用人の意向も同じでした。
田舎の邸宅は、
彼らが暮らしていくための
大切な基盤でしたが、
この世の何物も、エルナより
貴重ではありませんでした。
バーデン男爵夫人は
ウォルターが持っているなり
転売するなり、
思い通りにしていいので、
すぐにエルナを返してくれと
力を込めて告げることで、
シュベリンに来るまでの長い間、
数え切れないほど練習して来た
話を完璧に終えました。
あとは、名前だけ思い出しても
恋しくて涙が出そうな
孫娘を出してもらうことだけでした。
ウォルターは、
でたらめを言っているのではなく
まさか、本当に、
エルナを探しに来たのかと
尋ねました。
不審な目で彼女を見ていた
ウォルターの表情が
かなり深刻になりました。
隣に座っている子爵夫人も
そうでした。
ウォルターは、
エルナがバフォードに
戻ったわけではないということかと
呟きました。
バーデン男爵夫人は、訳が分からず
微かに震える声で、
今何を言っているのかと
聞き返しました。
ウォルターは、あっという間に
酔いが覚めたような気分になり、
あっけにとられて失笑しました。
どうやらあの老人は
本当にエルナの行方を
知らないようでした。
彼女は、
あの子をこっそり連れ去って、
このような演技を
披露するような偉人には
なれないからでした。
では、あの不埒な者は
本当に家出でもしてしまったのか。
彼は目を丸くして、
隣に座っている妻を見ました。
ブレンダも当惑した表情で
彼を見ていました。
嵐が過ぎ去った日の朝、
部屋に食事を運んで行った
エルナのメイドの泣き声で、
エルナが消えたことを知りました。
夜が明けるまで酒を飲んでいた
ウォルターは、泥酔状態で
その、とんでもない知らせを
聞きましたが、
あまり気にしませんでした。
あの子が行く所は、
どうせあの田舎だけなので、
近いうちに再び連れて来て
きちんと躾しなおした後、
下級貴族、それさえ不如意ならば
爵位のない成金にでも
売ってしまうつもりでした。
ところが、バーデン男爵夫人が
エルナを取り戻すために、
この家にやって来たので、
彼は、エルナが姿を消した事実を
真剣に受け止めなければ
なりませんでした。
すると、突然喉が渇いて
頭がズキズキし始めました。
そんなウォルターを見ていた
バーデン男爵夫人は、
今にも泣き出しそうな顔で
いきなり立ち上がりました。
バーデン男爵夫人は、
父親のくせに、
娘がどこにいるのかも知らないまま
酒を飲んでいたのかと、
使用人たちを一瞬にして
凍りつかせるほど恐ろしい姿で
ウォルターを、鋭く一喝しました。
そして、
こんな者でも父親だと思って
エルナを送った自分は
とても愚かだったと、
火のような怒りを込めて、
ウォルターを呪う言葉を浴びせた
バーデン男爵夫人は、
震える足をかろうじて支えながら
応接室を出ました。
苛立たしげに
廊下をうろうろしていた
グレベ夫人は、
泣きそうな顔で近づいて来て、
エルナお嬢さんはどこにいるのかと
尋ねました。
ようやく息を整えた
バーデン男爵夫人は
冷や汗が滲んだ手で、
彼女の手をギュッと握ると、
エルナが行方不明なので、
すぐに警官に会わなければならないと
答えました。
グレベ夫人を見つめる
バーデン男爵夫人の青い目が
涙で濡れました。
ビョルンは、
港のある方向の窓を開けて
バルコニーに出ました。
空は、雲一つなく快晴で、
嵐の跡は、
どこにもありませんでした。
まだ固く閉ざされている
寝室の扉を見たビョルンは、
優しい笑みを浮かべながら
欄干越しの風景に
視線を移しました。
金融街と隣接した住宅街に位置している
タウンハウスは、
春、都市を席巻した
投資詐欺にやられた実業家が
急遽、お金を手に入れるために
相場より安い価格で
売りに出したものでした。
ビョルンは、何も悩むことなく
購入しました。
銀行と近いので、業務のために
この辺りを訪れる時に
滞在するのに便利だったし、
あまり大きな使い道がなくて
転売することになったとしても
大きな利益を得られそうなので
躊躇う理由はありませんでした。
そして、このようなことにも、
使われる日が来たので
色々な面で
卓越した決定だったわけでした。
海風に当たっていたビョルンは、
背後から声をかけられて
振り向きました。
厳しい表情のフィツ夫人は、
礼儀正しい眼差しで、
彼を見つめていました。
彼女は、
見舞いを受ける準備ができたので
行ってみるようにと言いました。
ビョルンは笑顔でお礼を言うことで
フィツ夫人の苦労を称えました。
エルナを、
このタウンハウスに連れてきた夜
彼は、大公邸に御者を遣わして、
主治医とフィツ夫人を
連れて来させました。
自分の側の人が、
最も信頼できると判断して
下した決定でした。
ハルディ家の令嬢が、
どうしてあんな格好で、
ここに寝込んでいるのかに対する
簡単な説明を聞いたフィツ夫人は、
白くなった顔で、
「何てことでしょう」という言葉だけを
繰り返し呟きました。
淑女をめぐって、
金を賭けたという事実を
受け入れ難いようでした。
彼女は、
幼い頃、厄介なトラブルを起こした
幼い王太子を叱った乳母のように
「何てことでしょう」と
厳しく叫びました。
心を静める祈祷文を書き写す罰を
受けなくてもいいほど
年を取ったという事実が
ふと幸いな瞬間でした。
その瞬間のフィツ夫人は、
祈祷文100回の罰を
下すこともできるような顔を
していたからでした。
そのおかげで、
より最新の注意を払って
エルナの世話をしてくれているので
結果的に悪いことでは
ありませんでした。
バルコニーを離れたビョルンは、
小さな応接室とつながっている
寝室の扉を軽く叩きました。
忙しく動く気配が止まると、
「はい」と
小さな返事が聞こえて来ました。
そして、
「お入りください、王子様」と
響きがとても澄んでいて
優しい声が聞こえて来ました。
感謝の気持ちを伝え、
いくつかの儀礼的な挨拶を
交わした後、
これ以上話すことができなくなった
エルナは、自分の手だけを
数分間、見下ろしていました。
時計の針の音と
不規則な心臓の鼓動に、
これ以上耐えられなくなった頃、
幸いビョルンが
お茶を勧めてくれました。
エルナは震える目を上げて
彼を見ました。
ビョルンは片足を組んで座り、
茶碗を握っていました。
彼は、とても大きな手をしているので
普通のカップが
ままごとのように見えました。
その手が、自分の顔を
しっかり包みこんだ、
3日前の大雨の夜のことを
思い出したエルナは
頬を少し染めて、
視線を落としました。
丸一日患って、
ようやく意識を取り戻したエルナに
ここがどこなのか教えてくれたのは
自分をフィツ夫人だと紹介した
老婦人でした。
彼女は、
エルナが、ここを去るという意思を
示す度に、
自分には決定権がない。
王子様と話してみるようにと
いつも、同じ返事をしました。
承諾を求めることも、
まともに体を整えることさえ
難しい状態で、
こっそり逃げることもできなかった
エルナにできたのは、
ただ決定権を握った王子を
待つことだけでした。
そして今日、ついに
彼がやって来ました。
エルナは、
いじってばかりいた茶碗を置くと
王子様のおかげで、
今はだいぶ良くなったと
慎重にお礼を言いました。
ビョルンは、
熱意のない興味のこもった目で
エルナを見ました。
まだ、病人の顔色をしていて、
顔に傷が残っているけれど、
少なくとも目つきは、
以前のようにはっきりしていて、
あの夜より、
見た目が良くなっていました。
ほんのり赤い頬と唇。
細い首筋を見つめていた
ビョルンの視線が、
ドレスの首元のリボンの上で
止まりました。
それが呼び起こした雨の夜の記憶が
ビョルンを笑わせました。
帽子とマントは、はがしたけれど
エルナは、まだびしょ濡れでした。
このまま、
寝かせるわけにはいかないので
まずビョルンはエルナを
ソファーにもたせかけました。
その時、唸っていたエルナが、
ぱっと目を覚ましました。
ビョルンが、
濡れた服を着替えなければならない。
このままだと、
本当に大変なことになると言うと
エルナはびっくりしながら
ドレスの前立てをつかみ、
自分がやると言い張りました。
指先が触れただけでも
痴漢にやられたように
大騒ぎすることが明らかだったので
ビョルンは、退くことにしました。
彼ができたのは、
タオルと服が入ったトランクを
ソファのそばに持ってくる程度でした。
ビョルンは、
閉ざされた寝室の扉にもたれかかり、
女性の気配に耳を傾けました。
おそらく、転んだのか、
床が鳴る音と小さなうめき声、
そして、
ゆっくりと荷物をかき回す音が
イライラする雨音の間に
伝わって来ました。
5分、ビョルンは、
自分なりの制限時間を決めた後、
懐中時計を開きました。
その時まで、女性が
あんな無意味な抵抗を見せるなら、
むしろ痴漢扱いを
甘受するつもりでした。
しかし、ちょうど5分後に
寝室の扉を開けた
ビョルンの目に入ったのは、
パジャマ姿で
ソファーに倒れこんでいた
エルナでした。
驚いたことに、
ボタンをもれなくかけ、
首元を合わせるリボンまで
きちんと形を整えて結んでいました。
たかがリボンで、
人間の決然とした意志と信念を
感じることができるという事実に
改めて驚嘆した夜でした。
失笑したビョルンは、
エルナを抱き上げて
ベッドに寝かせました。
そして、明け方、
目が覚めた主治医が到着するまで、
彼は愚かな淑女のそばを守りました。
躊躇っていたエルナは
再び口を開くと、
いつも、ビョルンが、
大きな助けを与えてくれることに
感謝し、また謝罪しました。
何度も繰り返される、
型にはまった挨拶は退屈でした。
そして、
これ以上、迷惑をかけることは
できないので、
自分は、これで失礼するという
すでに予想していた言葉も、
やはりそうでした。
そして、エルナが、
自分のために、また王子様が
悪いスキャンダルに
巻き込まれてはいけないし、
自分も友人を探さなければと
話しているところで、
ビョルンは眉を顰めて
「友人?」と聞き返し、
エルナの言葉を遮りました。
そして、ビョルンが
パーベルの名前を囁くと、
エルナは目を見開きました。
その混乱に満ちた目を直視しながら
ビョルンは、
優しい笑みを浮かべて、
パーベル・ロアーですよね。
ハルディさんと一緒に
夜逃げをしようとした、
芸術アカデミーの嘱望される画家と
言いました。
タウンハウスは
ビョルンの半分隠れ家的な存在で
必要な時には呼ぶけれど、
普段は、メイドや侍従が
常駐していないのかもしれません。
今回しか、タウンハウスは
出て来ないけれど、
ビョルンが認める通り、
エルナを匿うにはもってこいの
場所だったのだと思います。
もしも、エルナのことが心配のあまり、
バーデン男爵夫人が
シュベリンに来なかったら、
エルナが行方不明になったと
警察に届けることもなく、
大騒ぎになることも
なかったでしょうから、
エルナは、タウンハウスを出た後、
パーベルと一緒にバフォードに帰って
めでたしめでたし・・・に
なっていたかどうかは
分かりませんが。
ずぶぬれになったエルナを
放っておけず、
タウンハウスにまで連れて来て
主治医が来るまで、
エルナのそばで見守っていたのに
彼女への自分の気持ちに
気づかない鈍感なビョルンには、
王の結婚しろという言葉が
必要だったのではないかと
思います。
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いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
皆様の白熱かつ素晴らしい
考察を読むことで
新たな気づきを得ることができ
感謝の気持ちでいっぱいです。
さて、次回の更新ですが、
ようやくハーレムの男たちが
終わりますので、
金曜日に更新できればいいなと
思っております。
できなかった場合は、ご容赦ください。