35話 レイラの学費を盗んだダニエルは、マティアスと出くわしました。
庭師の小屋に泥棒が入った。
その知らせは、あっという間に、
邸宅中に広まりました。
ほとんどの人々は、
あえてヘルハルト公爵家の領地に
忍び込む、肝っ玉の大きな泥棒が
いるのだろうかと思いましたが
半分、魂が抜けて、
泥棒を探し回るビル・レマーの姿は
その疑いを消すのに十分でした。
マティアスは、昼食に送れないために
その騒ぎのピーク時に邸宅を出ました。
くだらないゴシップには
興味のない彼でしたが、
邸宅の進入路を通る頃、
馬に乗った警官が
道路の反対側から近づいて来るのを見て
普段と違う雰囲気を感知しました。
この道は、アルビスだけに
つながっているので、
彼らが向かう所がどこなのかは
考える必要がありませんでした。
マティアスが聞く前に、
気の利く侍従は、
庭師の家に泥棒が入り、
子供の大学の学費のために
用意しておいたお金が消えて
混乱に陥ったようだと説明しました。
泥棒。学費。レイラ。
興味深そうに、その単語を
繰り返していたマティアスは
今朝、川のほとりで出会った
見知らぬ男のことを思い出しました。
その男は、エトマン夫人の従弟の
ダニエル・レイナーだと自己紹介し、
エトマン家を訪問したついでに、
レイラに合格祝いの言葉を伝えたくて
立ち寄ったと話しました。
彼はその後も、
自分が運営する小さな投資会社や
海外鉱山の採掘権などについて
騒ぎ立てましたが、
ほとんど聞き流して
記憶に残っていませんでした。
ただ、マティアスは、
汗をだらだら流しながら、
長広舌を振るう中年男性を前にして
腕時計を見た時、
まだ9時になっていなかったことを
覚えていました。
教養のある中流層の事業家が、
従姉の息子の妻となる子供の
大学合格を祝いに訪れるには
早すぎる時間でしたが、
どうでもいいことだったので
何気なく通り過ぎました。
庭師の小屋に泥棒が入ったという
とんでもない話を聞くまでは。
それだけのことだと思いました。
しかし、いくら困窮していても
あえて見知らぬアルビスまで
やって来て、
裕福な従姉の家で盗むならまだしも
庭師のお金を盗むのは
お話になりませんでした。
しかし、マティアスは、
そのくだらないことへの興味を
捨てようとして無意識に
「リンダ・エトマン」の名前を
呟いた時、その男とレイラの間に
彼女の名前を入れてみたところ
かなり、もっともらしい関係が
描かれました。
もちろん、これも憶測に近いけれど、
先程より、
道理がかなっているという点で
かなり興味が湧きました。
昼食会のあるホテルの前に
停車した車から降りる前、
マティアスは随行員に、
できるだけ早く、
ダニエル・レイナーについて
調べてみるよう指示しました。
食欲旺盛なビルとカイルが
食卓に座っているのに、
夕食は、ほとんど減らずに
残っていました。
その理由をよく知っているレイラは
静かに食卓を片付けました。
皿を半分も空けられなかった
ビルは、すぐにポーチに出て
タバコを吸いました。
泥棒が入った後、小屋の雰囲気は
ずっとこのように沈んでいました。
レイラを手伝っていたカイルは
大丈夫だと、
慎重に口を開きました。
せっせと動かしていた手を止めた
レイラは、彼を見ました。
カイルは、
きっと泥棒は捕まるし、
もし捕まらなくても、
学費のことは心配しないように。
父親がレイラの学費まで
一緒に出してくれることを
伝えるように言われた。
断ることは考えないように。
父親は最初から出したがっていた。
ビルおじさんの意思が、
あまりにも強固だったから譲歩した。
結婚するということは、自分たちが
家族になるということだ。
世話になるのではなく、家族だから
当然、
互いに助け合うものではないかと
いつもと違い、はっきりした口調で
言いました。
レイラは、
しばらく立ち止まっていましたが
ゆっくり頷きました。
視線は下を向いたままでした。
わずか数日の間に、
ひどくやつれたレイラの顔が、
平和な森を荒らした泥棒に対する
カイルの憎悪を募らせました。
カイルは、
泥棒を捕まえる可能性が、
著しく低いことを
よく知っていながらも、
とにかく、万が一に備えて、
泥棒を捕まえることだけを考えようと
希望に満ちたように話しました。
ようやく、レイラは微かに微笑むと
カイルにお礼を言いました。
カイルは、
自分が何をしたというのかと
尋ねると、レイラは、
「何となく、全部」と答えると
もう一度ニッコリ笑いましたが、
カイルの心は、
むしろさらに重くなりました。
カイルは、レイラが、
ビルおじさんと一緒に
首都へ旅行に行くことを
どれだけ喜んでいたか
はっきり覚えていました。
おじさんは、
学費を払いに行くと言ったけれど
実は初めての家族旅行だ。
おじさんは無愛想で、
うまく表現できないけれど、
確かにそうだと言って、
レイラは子供のように喜びました。
そして、ラッツは2度目だから、
おじさんを、うまく案内できると
大声で叫ぶレイラをからかって
カイルも一緒に幸せでした。
おじさんと一緒に行く場所、
一緒に食べる料理など、
興奮してぺちゃくちゃ話すレイラが
あまりにも可愛らしくて、
カイルは危うく、ビルおじさんに
嫉妬するところでした。
ところが、泥棒が
全てを台無しにしてしまいました。
たとえ、
そのお金を取り戻せたとしても、
レイラとビルおじさんが
嬉しい気持ちで旅行に行けるはずがなく
それは、カイルが
どうにかしてあげられることでは
ありませんでした。
限りなく無気力になりそうな気持ちを
振り払うように、
息を整えたカイルは、
ポーチにしょんぼり座っている
ビルのそばに近づきました。
隣に座ったカイルをちらっと見た彼は
再びタバコだけを吸いました。
人を殺める
数十種類の方法を講じながら、
泥棒に対する敵意を燃やした
この数日が、
むしろ懐かしくなる姿でした。
しばらくして、ビルは、
すべて自分のせいだ。
大金を家に置いておきながら
きちんと戸締りをしなかったからと
呟きました。
カイルは、
おじさんのせいではない。
アルビスの領地に泥棒が入るなんて
誰も考えられないと慰めました。
ビルは、
来週が登録の締め切りだけれど
それまでに、泥棒を
捕まえることができるかどうか
分からないと呟くと、カイルは、
そのことは心配しないように。
それまでに、
泥棒を捕まえられなくても、
父親がレイラの学費まで
納付すると言っていたし、
レイラにも、そう伝えた。
そして、明日、親しい警官に
この事件を、
きちんと調べてくれるよう
頼むそうだと、
微笑みながら言いました。
ビルはカイルにお礼を言うと、
エトマン家に、何から何まで
世話になることになり
面目ないと言いました。
カイルは、
そんなこと言われるのは寂しい。
自分が驕ってもらった食事代の半分も
まだ払っていないと、
いけずうずうしく返事をすると、
ビルは、元気がなくても
ニッコリ笑いました。
ビルは、
必ず両親に、
感謝の言葉を伝えて欲しい。
いや、事が解決したら、
両親に挨拶に行くと伝えて欲しいと
頼むと、力を込めて
カイルの肩を握りました。
彼は、
そんなことをしなくてもいいと
言おうとしましたが、
ゆっくり頷きました。
よく分からないけれど、
それは、ビルのためのことだという
予感がしました。
カイルは彼の心を守りたいと
思いました。
公爵邸の2階にある書斎は、
広々とした空間で
普通の図書館と同じくらい蔵書があり
3階の端にある、
マスタールーム付きの書斎は
それより規模が小さく、
歴史や政治、経済書で
満たされていました。
代々、ヘルハルト公爵は
その書斎で接客と執務を行い
マティアスも同様でした。
その3階の書斎へ
慌ただしく向かいました。
マティアスが成人した年から、
彼に随行する秘書を
務めて来ましたが、彼は一度も
急かされるような命令を
受けたことがありませんでした。
しばらくは、
マティアスの生来の気性が
のんびりしているのかと
思っていましたが、すぐに彼は、
このベルク帝国の空の下に、
ヘルハルト公爵が
急いで焦るようなことは
存在しないかもしれないということを
知りました。
マティアスは、すべてを持ち、
すべてが順調な人生で、
自分が世界に勝つことを
知っている男でした。
彼が見せる寛容さと親切さは
そこに起因すると、
彼は確信していました。
そのためか、
マティアスのそばにいると、
空気さえ、ゆったりと
流れるような気がしました。
そのマティアスが
「できるだけ早く」という条件を
付け加えた時、マークは、
しばらく自分の耳を疑いましたが
間違いなく事実だということを
自覚した後は、無我夢中で
ダニエル・レイナーについて
調べ始めました。
マークは静かにドアを開けて
書斎に入ると、 マティアスは
ソファーの背に
深くもたれかかっていました。
マークは、
ダニエル・レイナーに関する資料を
応接テーブルの上に丁寧に置きました
マティアスは、それを手に取ると
ゆっくり書類を読み進めました。
その姿は、マークが知っている
本来のヘルハルト公爵と
大きく変わりませんでした。
しかし、安堵したのも束の間、
書類の最後のページまで
じっくり読んだマティアスが
クスクス笑ったので
マークはさらに当惑しました。
詐欺に近い海外鉱山の採掘権に
目が眩み、
家を担保にして巨額を投資し、
結局、その金をすべて失い、
乞食同然の情けない男のどこが
あの感情のない公爵を笑わせたのか
なかなか見当がつきませんでした。
マティアスは、
おそらく、ダニエル・レイナーは
最近、劇的に
銀行の借金を返しただろうと指摘すると
折りたたんだ書類を手にして
頭を上げました。
無表情の時は、
かなり穏やかな印象を与えるのに、
楽しそうにクスクス笑うと
むしろ冷酷な感じを与えました。
マークは、
全額ではないけれど、
家が人の手に渡るのを防ぐ分は
返済した。
今日の午後のことなので
報告書には入れなかったと
答えました。
マティアスは、
そのお金の出所はエトマンではないかと
まだ、ニコニコした顔で
話し続けました。
「リンダ・エトマン」の名前を
ゆっくり発音するマティアスは、
この上なく、楽しい人のようにさえ
見えました。
マークは、
それをどうやって・・・と
戸惑っていると、
マティアスは返事の代わりに
マークを労い、
ヘッセンを呼ぶよう命令しました。
マークは呆然としていましたが
聞き返すことなく
その命令に従いました。
ダニエルはマティアスを
知っているけれど、
マティアスはダニエルを知らないので
彼は怪しまれるのを恐れて、
リンダの従弟であると
自己紹介したのでしょうけれど
マティアスの洞察力が
ここまで鋭いことは
知らなかっただろうと思います。
リンダも、まさか
マティアスとダニエルが出くわし
彼が慣れない犯罪の直後で
アドレナリンが過剰に分泌され、
マティアスに、
あれこれしゃべることになるなんて
想像もしていなかったと思います。
カイルは、レイラを悲しませた
泥棒に、ひどく腹を立てているけれど
それが自分の母親だと知ったら
どう思うのでしょうか。
リンダは、レイラだけではなく
息子にも
深い傷を負わせる可能性があることを
気づくべきだったと思います。
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いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
次回は月曜日に更新しますので
しばらくお待ちください。