41話 エルナは倒れた祖母の看病をしています。
絶対的な安定が必要だという
医師の助言を聞いた瞬間、
エルナは、堕落した淑女になろうと
決心しました。
一つ一つ真実を語り、
再び祖母に、別の衝撃を与えるよりは
当分は、都市の放蕩に染まった
分別のない孫娘だと
誤解されたままの方が良いと
思ったからでした。
病院に駆けつけて
意識のない祖母を見たエルナは、
しばらく、息をまともにすることが
できませんでした、
倒れた祖父を発見した日の記憶に襲われ
首を絞められたようになりました。
祖父は心臓麻痺で
書斎の床に倒れたまま
息を引き取りました。
その姿を初めて発見したのは
ティータイムを知らせに行った
エルナでした。
祖母が倒れた理由も
心臓に無理がかかったためだと
聞きました。
もし人の多い都市の真ん中で
倒れたのでなかったら。
もう少し遅れて病院に到着していたら。
祖母の心臓がもう少し弱かったら、
そのせいで、祖母も祖父のように、
ある日、突然、お別れの一言も言えずに
去ってしまっていたら。
そんな仮定をするだけでも
エルナは涙が溢れ出ました。
もし、そんなことになっていたら
エルナは一生、
自分を許さなかったはずでした。
エルナは、
運命を愛せよという
これまで人生を支えてきた信念を
思い出しながら、熱くなった目頭を
ギュッと押さえました。
こういう時こそ、
強くならなければならないので
自己憐憫に
陥りたくありませんでした。
まずは、祖母が
健康を回復することだけに集中し
長い距離を移動できるほど回復したら
一緒にバフォードに戻ればいい。
そして、
パーベルに借りることにしたお金で
借家を探し、
この都市のことはきれいに忘れて、
そこで新しい人生を・・・と
考えていたところで、
ふと、「絶対的な安定」という
医師の助言が思い浮かび、
エルナが必死に思い浮かべていた希望を
断ち切りました。
一生の思い出が込められた
大切な邸宅を失い、
借家を転々とする人生に、
絶対的な安定が存在できるだろうか。
きっと、祖母に大きな混乱を
もたらすことになるだろうと
思いました。
エルナは、再び途方に暮れました。
しかし、
他にどんな方法があるだろうか。
田舎の家を守れる道は、
もうどこにもありませんでした。
トーマス・バーデンのプロポーズを
受け入れることが、
一番簡単な道だったかもしれないという
気がすると、
自分が限りなくみすぼらしくて
惨めになりました。
最善を尽くした努力が、
諦めに及ばない結果をもたらした。
認めたくないけれど、今、
エルナの目の前に広がっている現実は
確かにそうでした。
夕方になると、エルナは
閑散とした廊下の隅にあるベンチに座り
化粧を直しました。
いくら努力しても、
リサがしてくれたようには
うまくいきませんでした。
努力すればするほど、
ますます悪くなるのが、
まさに目の前の現実のようでした。
ゆっくりと息を整えたエルナは
バカみたいな化粧を
落としてしまいたい衝動を抑えながら
立ち上がりました。
病室のドアを開ける前、
エルナは仮面をかぶるように
微笑みました。
大き過ぎて手に負えない現実に
押さえつけられて息が詰まっても
依然として、
この人生を愛したいと思いました。
そんな自分が恥ずかしくて悔しい分、
エルナの笑みは
明るくなって行きました。
ピークを過ぎた夏が終わるのに、
どこへ行っても
エルナの名前は、まだ熱く語られ
彼女を噛み砕くことは、
今や一種の狂気に近い遊びに
なっていました。
ビョルンは、
耳鳴りのようにグルグル回る名前を
消すように、
ゆっくりと目を開けました。
そろそろ終盤に入った
カードゲームは
熱気が冷めていました。
いつの間にか夜が明けていたので
それも当然でした。
この数日間、自分の名前より多く
聞かなければならなかった
エルナという名前が、
再び意識の上に浮び上がった瞬間に
ウェイターがお茶を持って来ました。
赤くなった目の周りを
撫でていたビョルンは、
渋めの濃いお茶を一杯飲むと、
初めて、ぼんやりしていた頭の中が
すっきりしました。
聞いたところによれば、
エルナは、
まだ祖母の看病をしながら
病院に留まっているらしい。
人目を意識するなら、
役に立つふりをしても
良さそうだけれど、ハルディ子爵は
もう自暴自棄の段階に至ったのか
徹底的にバーデン男爵夫人を
無視している。
病院代を払っているのは、
パーベル・ロアー。
あの女性と夜逃げをしようとした
画家らしい。
ふざけている。
家族のような友人だと、
真顔で釈明していた女性を
思い浮かべながら、ビョルンは、
少し笑いました。
非常に高い確率で金は嘘をつかない。
この世に、
好きでもない女にお金を使う
間抜けな男はいない。
ビョルンは、彼らが
友達であれ、家族であれ、
恋人であれ、これ以上、
気にしたくありませんでした。
窮地に追い込まれた女性に
最も必要なお金を握らせて、
もう、この遊びを
終わらせるつもりでした。
父親のとんでもない命令と、
最悪なスキャンダルが
広まっていなければ、
とっくに、そうしていたはずでした。
自分の番が来ると、
ビョルンはゲームを終えるカードを
黙々と下ろしました。
すでに、
自暴自棄になっていた他の人たちは、
素直に敗北を受け入れました。
勝利しても、
特に嬉しくないビョルンは
ため息をつくと、
椅子に深く寄りかかって
目を閉じました。
他の人が去った後も、
最後まで残っていたペーターは
慎重に彼の名を呼ぶと、
ビョルンは頷きました。
ペーターは、
ハルディさんは悪い女ではないと、
躊躇いながら言いました。
目を開けたビョルンが、
ペーターの方を向いて、
「それで?」と尋ねました。
ペーターはギョッとして
緊張しました。
ややもすると鋭い猛獣のような
あの王子を、怒らせることに
なるかもしれませんでしたが
だからといって、
知らないふりをするには
エルナへの心の負債が
大き過ぎました。
ビョルン王子とグレディス王女の
熱烈なファンを自任した彼の母親。
そして、祖母と妹、幼い甥っ子まで、
最近、全力を尽くして
エルナ・ハルディを中傷していました。
ある日、
突然登場した悪役を退治するために
皆一丸となっていました。
男も同様で、
特にビョルンに、あまり良い感情を
抱いていないけれども、あえて
立ち向かうことができなかった者たちは
これまで抑えてきた悪意を
全てエルナに吐き出していました。
ビョルンが、
彼女に本気でないことが
幸運に思えるほどでした。
もし、ビョルンが本気だったら、
相当、酷い目に遭った人が、
一人や二人ではないはずだからでした。
ペーターは、
いい加減にしたらどうか。
このままでは、本当に、
再起不能な状態にまで
追い込まれてしまう。可哀想だと、
ペーターは、
ぎこちなさそうな笑いを交えながら
不快な会話を誤魔化しました。
ビョルンは肯定も否定もせず、
天井を見上げました。
耳が痛くなるほど、
エルナ・ハルディの名前を聞いた
数日間、
ペーターとは全く違う理由で、
人々は、いい加減にしろと
同じような言葉を浴びせました。
大公邸に押しかけたルイーゼは、
どうか彼女と別れてくれと
涙で訴えたりもしました。
とどのつまりはグレディス。
突然、
エルナ・ハルディを許した父と母。
そしてその知らせを聞いた
レオニードを除く全員、
もう、あの取るに足らない女を
片付けて、自分たち全員が望む
ハッピーエンドを見せてくれと、
ルイーゼと同じ願望を
抱いていました。
ビョルンは、
数えきれないほど繰り返されて来て
これからも繰り返される輪唱が
ふと耐えられないほど
退屈になりました。
この、うんざりした夏の日々と
無意味な騒ぎ。目の前の人生の日々。
すべてが、そうでした。
ビョルンはため息をついた後、
眉を顰めて、自分の取り分の
ポーカーチップを見ました。
清らかでおとなしい女性の顔と
ごちゃごちゃした記事。
赤毛の画家とグレディスが、
その上に、短く浮かび上がり、
消えて行きました。
エルナが消えても、
この歌は終わらない。
自分とグレディスのどちらかが
再婚したり死なない限り、
他の女を狙って続くだろう。
エルナ・ハルディと結婚しろという
とんでもない命令を下した
父親の心境も、
このようなものだったのだろうか。
確かに、
最初も愛なしで結婚し、
愛なしで離婚しました。
政略結婚だから、私的な感情を
排除したわけではなく、
ビョルンにとっては、愛が最初から
無意味だったからでした。
彼は、そんな曖昧な観念よりも、
単純で明瞭な感覚と数字を
信じていました。
好きか嫌いか。
得をするか損をするか。
それを、もっともらしく包んで、
自分を欺く、感情的な贅沢に
執着する気持ちはありませんでした。
グレディスだけでなく、
他のすべての女性に対してもそうで
エルナ・ハルディも同様でした。
その女性が与える利益が、
損害より大きければ、愛なしで、
もう一度、結婚できない理由も
ありませんでした。
はたしてエルナはどうなのか。
彼女は美しかったので、
それ以外は、何の得にもならない、
赤字だらけの
むちゃくちゃな帳簿でも、
彼女を楽しむ時間の効用を
彼は喜んで認めました。
それに、大公妃の席が埋まれば、
少なくとも、これ以上、
グレディスの名前を聞かなくても
済むだろうと思いました。
その静けさは、
ウォルター・ハルディを
甘受するだけの価値があると
思いました。
そうやって足して、また引けば
差し引きゼロ。
ビョルンは、
一番上のチップを一枚
手に取りました。
どうせ、カードのテーブルから
始まったことなので、
ここで終わらせるのも
悪くはありませんでした。
このような、
くだらない状況が与える苛立ちは
ますます大きくなり、
彼の忍耐心は、今や
臨界点に達していました。
表と裏。 ビョルンは、
それぞれのケースを
いい加減に決めた後、
チップを高く投げ上げました。
カードルームを出ようとした
ペーターは、足を止めたまま
ぼんやりと彼を見守りました。
チップは、
すぐにビョルンの手の中に
戻りました。
ゆっくりと指を広げると
数字が見えました。 表でした。
手に握ったチップを
じっと見下ろしていたビョルンは、
失笑しながら立ち上がり、
ジャケットを手に取りました。
ペーターは、
非常に訳が分からないという顔で
何をしているのかと質問をしました。
ビョルンは、「決着」という、
短い曖昧な答えを投げかけると、
悠々とカードルームを出ました。
大公を乗せた馬車は、
市街地の中心へ向かいました。
家の問題。家族の問題。
19歳のエルナの小さな肩にのしかかる
責任が重すぎて、手に負えないのに
「運命を愛せよ」という信念を支えに
何とか活路を見出そうと
頑張って来たエルナが、
どんなに努力しても、
ますます悪くなると
絶望に近い心境になっているのは
今が、本当に、
人生のどん底にいるからなのだと
思います。
そのエルナを助けに来てくれた
ビョルン。
今まで、エルナが
ビョルンのことを
好きでなかったとしても、
今回のことで、
一気に恋に落ちたと思います。
好きでもない女にお金を使う
間抜けな男はいないと
考えているビョルン。
ということは、エルナに
お金を渡そうとしているビョルンは
エルナのことが
好きなのではないかと思いました。
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いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
kumari様、midy様
メロンパン様、サファイア様
キヨキヨ様
お祝いのお言葉を
ありがとうございます。
とても嬉しいです。
「問題な王子様」のブログを書き始めて
もう1年経ったなんて、
私自身、全く気づいていませんでした。
Kumari様、
そこまで、気にかけていただいて
本当にありがとうございます。
ここまで続けて来られたのも
皆様の励ましと支えがあったからです。
これからも、
よろしくお願いいたします。
次回は、明日、更新します。