44話 エルナとの昼食の約束をビョルンは忘れていました。
彼が来てくれた。
すっぽかされたと思って
仏頂面をしていたエルナは、
一瞬、明るい顔で立ち上がりましたが
いつも、姿勢を正して優雅に歩く男が、
なぜか、少しよろめきながら
歩いていました。
しかも、服装が乱れている上、
酒の匂いまでしました。
まさか。
エルナは現実を否定するように
首を振りました。
確かに約束をしたし、今は昼間なので
酔った姿で婚約者と向き合うのに
良い時ではありませんでした。
しかし、ビョルンが近づくほど、
エルナの希望は薄れていきました。
呆然としたエルナを見て、
ビョルンは挨拶をすると
ニヤニヤしました。
そして、申し訳ないけれど
見ての通り、昼食は少し無理そうだと
言いました。
ビョルンの目からは、
ひどい酔いと眠気が
滲み出ていました。
返事をしなければいけないことは
分かっているけれど、
エルナは適当な言葉を見つけられず
ぼんやりと彼を眺めていました。
結婚準備の一環として、
王室の礼法の先生に
教えを受けてはいるけれど、
泥酔した婚約者に対する
王族の礼儀のようなものは
どこにも、
見たことがありませんでした。
しばらく沈黙を守っていたビョルンは
置時計を確認した後、
夕食で良ければ待ってもらえるかと
ため息をつくように尋ねました。
エルナは、しかめっ面で
ビョルンが見ていた時計を見ました。
とんでもなく無礼だと思いつつ
エルナは、
思わず頷いてしまいました。
この状況に、あまりにも混乱していて
自分が何を言っているのか
まともに認知することさえ
困難でした。
ビョルンは、
それでは、そうすると
歌を口ずさむように囁きながら
エルナに近づくと、
これはハルディさんにあげる。
お詫びのプレゼント。
自分が守ったと言うと、
ビクッとして後ずさりするエルナに
ずっと手に持っていた金色の物を
渡しました。
脳裏に焼き付いていて
忘れようとしても忘れられない物。
これらすべての騒動の原点とも言える
鹿の角のトロフィーでした。
エルナは、うっかり胸に
トロフィーを抱いてしまいました。
このトロフィーは、
お酒を一番よく飲んだ人が
持ち帰るのが伝統だと
リサは説明してくれました。
だから王子は、一晩中、
独身パーティーで酒を飲み
黄金の鹿の角のトロフィーを
手に入れるために
婚約者との約束を
破ったということでした。
ところで、彼は確かに、
手に入れたのではなく
守ったって言っていたけれど、
まさか、その独身パーティーの主役は
王子様だということなのか。
どうして、そんなことができるのか。
独身ではないのに。
エルナは、金づちで
頭を殴られたような気分で
よろめきました。
その間、ビョルンは倒れるように
ソファーに横になりました。
トロフィーと王子を交互に見ていた
エルナは、
これは一体何なのかと
呆れたように尋ねました。
閉じていた目をゆっくりと開けた
ビョルンは、「狼の角」と
呆れた言葉を呟きました。
エルナは、
狼には角がないと反論すると、
ビョルンは、もう切られたからと
少し笑いの混じった声で
気怠そうに囁いた後、
会話は中断されました。
ソファーに横になったビョルンを
ぼんやりと見下ろしていたエルナは
倒れるように、
椅子に座り込んでしまいました。
突然、プロポーズを受けた日から今まで
自分に起きたすべてのことについて
理解できることが
一つもありませんでした。
その中で、
一番、理解するのが難しいのは
目の前にいる、
来週には自分の夫になる王子様でした。
やはり断るべきだったのだろうか?
しかし、
気絶したエルナが目を覚ました時、
すでに彼らの結婚は
決定事項となっていました。
祖母とグレベ夫人は、
大きな心配と安堵感が入り混じった
涙を流し、ビョルンは、
平然とした顔で笑っていました。
「目が覚めましたね、私の妃」と
彼が目を合わせながら冗談を言うと
エルナは危うく
再び意識を失うところでした。
燃え盛る地獄の火から
はじき出された火の粉のように
赤く煌めいていた不思議なバラは
彼女が横になっていたベッドの横にある
小さなテーブルの上に置かれた花瓶に
挿してありました。
不穏な眼差しで、眠っていた王子を
見下ろしていたエルナは、
突然、眉間にしわを寄せながら
立ち上がると、
窓際に置かれた椅子に移りました。
少し迷いましたが、
窓も少し開けることにしました。
応接室を侵食していた酒の匂いは、
ようやく少し薄れました。
エルナは、飲んでもいない酒に
酔ってしまったような
朦朧とした気分で、
眠っている酔っぱらいの婚約者を
眺めました。
独身ではないのに
独身パーティーの主役が守った、
鹿の角のような狼の角。
正体が何であれ、
色々と混乱したプレゼントであることは
明らかでした。
ビョルンは目を覚ますと、
黄金の鹿の角のトロフィーを
女王の笏のように抱いた
小さなお嬢さん、エルナ・ハルディが
最初に目に入りました。
ビョルンは、
ゆっくりと体を起こして座りました。
いつの間にか、
夕方近くになっていました。
エルナは、
まるで病人でも見るように彼を見ると
大丈夫かと慎重に尋ねました。
そして、
まさか昼食が夕食になり、
今度は夕食が朝食になるのを
待たなければならないわけでは
ないですよねと、
小さな棘が生えた質問をしました。
ソファーに深く腰掛けたビョルンは
ため息混じりの笑みを浮かべながら
頷きました。
こんな有様で、ここに倒れて
眠ってしまったなんて。
フィツ夫人も、
ひどく怒っているようでした。
ビョルンは、
凝った首筋を揉みながら
ソファーから立ち上がると、
淑女と夕食を共にするためには、
少しの準備が必要だと思うので
もう少し待ってくれるかと尋ねました。
エルナは、
それくらいは許すと
物分かりの良さそうな口調で
答えました。
怒って、尻尾を大きく膨らませた
子猫のような姿を
じっと見下ろしていたビョルンは、
楽しそうに笑いながら
応接室を離れました。
シャワーを浴びて着替えている間も
その笑いの余韻は、
口元に残っていました。
応接室に戻ったビョルンは、
まだ、その場に姿勢を正して座っている
エルナに向かって、
丁寧に手を差し出し
「さあ、行きましょう」と
声をかけました。
エルナは、
怒りが収まっていないと言いたそうな
澄ました表情をしていましたが、
素直に彼の手を握りました。
ビョルンは、
主に朝食室として利用する
ガーデンルームに案内しました。
ビョルンは、
テーブルの前にエルナを座らせると
反対側に座りました。
そして、
待機中の侍従に目配せすると
間もなく、料理が運ばれて来ました。
ところが、
用意された夕食は一人分だけ。
ビョルンの前に置かれたのは
コーヒーだけでした。
当惑したエルナはビョルンに
なぜ、食べないのかと尋ねました。
その無邪気な態度が
ビョルンを笑わせました。
ビョルンは、
気楽に食べて。自分はこれで十分だと
返事をすると、頬杖をついて
エルナを見ました。
まだ二日酔いが治まっていないせいで
頭がズキズキしましたが、
気分は、
それほど悪くはありませんでした。
躊躇していたエルナは、
しばらくしてから、ようやく、
カトラリーを握りました。
じっと見つめられる中で、
一人で食事をするのは
なかなか気まずいことでしたが
そのすべてを甘受するほど
お腹が空いていました。
朝食をまともに食べられなかった上
昼食をすっぽかされ、
日が暮れる頃まで
ひたすら待っていたからでした。
胃もたれしそうな沈黙が
負担になったエルナは
話したいことがあれば話して欲しいと
先に口を開きました。
ビョルンは、特にないと答えると、
コーヒーを一口飲みながら
微笑みました。
エルナは、
今日の約束は、
王子様が決めたことだと言うと、
ビョルンは、結婚式の前に一度は
食事を一緒にしなければならないと
思ったからだと答えました。
エルナは、
それだけなのかと尋ねました。
ビョルンは、
他の理由を期待していたのかと
聞き返しました。
エルナは、すぐに否定すると
ナプキンで、
何もついていない唇を拭きました。
妙に悪戯気を刺激する所がある
女性でした。
ビョルンは、
一段と、のんびりした気分で
エルナを見ました。
本格的な縁談が進行し始めてからは
いつも魂が抜けているような
姿でしたが、今日は
かなり生気を取り戻したようで
良かったと思いました。
エルナは、
餌をついばむ鳥のように、
ちびちび食べていましたが、
見事な食べ方をする女性でした。
生きている礼法の教科書のような
優雅な動作が、
リスのようにもぐもぐする幼い顔を
さらに際立たせました。
気まずそうに顔色を窺いながらも、
エルナは、
自分の分として与えられた食べ物を、
ゆっくり、きれいに食べていきました。
デザートが置かれる頃になると、
二人の間の雰囲気も、
一段と和らいでいました。
視線を合わせたかと思えば
すぐに頭を下げることを
繰り返していたエルナを
見守っていたビョルンは、
言いたいことがあればどうぞと
優しく催促しました。
エルナは、決然とした顔で
彼と向き合うと、
自分のメイドを宮殿に連れて来たいと
頼みました。
ビョルンは、
あの地獄の門番のことかと言うと、
それだけかと言うように
苦笑いをしました。
ビョルンは、
それはハルディさんの
思い通りにするように。
望むなら、他のメイドを何人でもと
返事をしましたが、エルナは、
リサで十分だと答えると
許可してくれたことにお礼を言い
頭を下げました。
そして、
怯えた子供のようだけれど
切実な顔でビョルンを見つめながら、
もう一つ、結婚式のことで
お願いがあると言いました。
それからエルナは、
静かに催促するような
ビョルンの視線の中で、
深呼吸を何度も繰り返した後、
新婦は父親と手をつないで入場するのが
伝統だけれど、
もし自分がその伝統に従わなければ、
レチェン王室と王子様に
大きな迷惑をかけることになるかと
尋ねました。
ビョルンは、
花嫁の立場の伝統に
従いたくないということかと
尋ねました。
エルナは小さく頷くと、
自分と手をつないで
バージンロードを歩く資格を
持っているのは祖父だけれど、
祖父は今、天にいるからと
答えました。
しかし、ビョルンは、
自分の記憶が間違っていなければ
ハルディ子爵は、
とても元気で生きていると言いました。
エルナは、
自分の父親であることを
自ら放棄した者と手をつないで
新しい人生が始まる道を
歩きたくないと主張しました。
ビョルンは、
口角を斜めに引き上げることで
興味を示しました。
青白い頬が、少しずつ
赤く染まっていきましたが、
エルナの目に込められた意志は
曲がる気配が見えませんでした。
エルナは、もし、それが
結婚式を台無しにするような
大きな無礼であれば、
意地を張ることなく、
我慢して従うことができる。
けれども、もし別の方法があるなら、
自分は王子様の手を握る。
王子様に連れて行って欲しいと
震える手を合わせながら
勇気を出して伝えました。
エルナが気を失って目を覚ましたら、
すでに結婚は決定事項になっていた。
私も、midy様同様、
この間に何が起ったのか
知りたいと思いました。
私の考えとしては、
男爵家が、
王子からのプロポーズを断るなんて
無礼なことができるはずがないし
エルナが結婚できないと
心配していたところへ、
スキャンダルの当事者が、
プロポーズをしてくれたので
渡りに船みたいな感じで、
すぐにバーデン男爵夫人は
承知したのではないかと思いました。
エルナのいる応接室で
眠ってしまったビョルン。
大公邸の中は安全だけれど、
応接室は客を迎える所なので、
普段のビョルンなら、
どんなに体調が悪くても
寝室まで行って、
休むのではないかと思います。
それなのに、応接室で、
しかもエルナのいる所で
寝てしまったのは、無意識のうちに
緊張感が解れ、
自分はここで寝ても大丈夫だという
安心感があったのではないかと
思いました。