48話 フィービーがマティアスの元へ来る理由は?
白い鳩が、
バルコニーの手すりに降り立つと
当然のように、
餌箱が置かれている所に近づきました。
窓越しに鳥を発見したマティアスは
「フィービー」と
レイラが切羽詰まった様子で
呼んでいた名前を低く呟きました。
フィービー。
たかが鳩一匹なんかに
なんて大げさな名前なのか。
鳥に狂った
何が何だかわ分からない女への嘲笑が
穏やかなため息のように漏れました。
マティアスは、
バルコニーへ続くドアを開けました。
彼が近づいても、
鳩は何の警戒もすることなく
餌を食べることだけに
熱中していました。
主人とはずいぶん違う性質の
おとなしい鳥でした。
マティアスは静かに目を閉じました。
落ち葉のカサカサいう音が
寂寞として美しいと思いました。
どこを見ても、秋のアルビスに
レイラがいました。
せっせと自転車のペダルを踏みながら
出勤したけれど、少し疲れた姿で
退勤したりもしました。
暇がある時は、庭師の仕事を手伝い、
時には籠を持って森を歩き回りながら
キノコや野生の実を
熱心に採ったりしていました。
彼が持っている世界のすべてのものが
この美しいアルビスに留まりました。
その完全な秩序に
マティアスは満足しました。
それは、
息子の結婚を防ぐために必死だった
リンダ・エトマンの密やかな助力者、
あるいは、密告者になって味わった
幻滅を消すのに十分でした。
当然いるべき場所にレイラがいる。
心地よい満足感の中で、
マティアスは目を開けました。
腹いっぱい食べた鳩は
すぐにバルコニーを離れ、
小屋のある方向へ飛んで行きました。
マティアスは、あの鳥が
明日も明後日も、ここを訪れることを
確信できました。
彼は鳥の気持ちなどに
少しも関心はありませんでしたが
鳥の飼い方は、よく知っていました。
マティアスは、
伝書鳩を動かすのは、
安定が保障された所で
お腹いっぱい食べられるという
確信であることを、
戦場で学びました。
軍事作戦に投入される鳥も、
この原理で飼いならしたからでした。
レイラの伝書鳩フィービーは
カイル・エトマンの窓の前に
飛んで行っても
何も得られないということに
気づきました。
その時、新しい餌の供給先が現れ、
そこは安全だったので、
今や、フィービーは
彼の所へ飛んで来ました。
愚かな主人と違って、
かなり賢い鳥でした。
伝書鳩が飛んでいった方向を
眺めていたマティアスは、
秋の遠足の日、彼と目が合うや否や
すっと消えてしまった
レイラの笑顔のことを
思い出して、眉を顰めました。
医者の息子には
気兼ねなく見せた笑顔だろうと
考えると、
すぐに消えてしまった笑顔の影が
さらに濃くなりました。
レイラは幼い頃から、
一様に彼の前で笑いませんでしたが
泣くのを
我慢することもできませんでした。
だから、マティアスは
レイラを泣かせました。
笑えなければ泣かせればいい。
笑いであれ涙であれ、
マティアスにとって良いことでした。
与えられるものが涙なら涙を、
傷なら傷を与えました。
しかし、他に何かを
与えることができたらどうだろうか。
この頃、マティアスは、
度々、そのような考えに
耽るようになりました。
怖がったり、怒りに満ちたレイラを
これ以上、見たくありませんでした。
マティアスは、
ただ自分を眺めるのを止めるレイラを
時には、甘えるように何かをせがみ、
それを渡すと
胸いっぱいの喜びの笑みを
浮かべたりする、
その女が欲しいと思いました。
マティアスは、
今や渇望を知りました。
彼はレイラ・ルウェリンの全てを
欲しいと思いました。
両手で包み込んでいたフィービーを
あちこち見ていたレイラは
「フィービー、太った?」と尋ねると
眉を顰めました。
冬に備えて、ぎっしり生えた羽毛が
膨らんでいるのかと思いましたが
よく見てみると
太ったのは確実でした。
クックックッと、
とぼけたように鳴くフィービーに
「秋だから?」 とレイラは
執拗に追及しました。
そして、
もうカイルもいないのに、
どこで何を食べてくるの? と
何気なく口にした言葉に
レイラは呆然としました。
その名前を思い浮かべると、
間違いなく目頭が熱くなりましたが
レイラは泣かないように努力しました。
自分は元気に過ごすから
カイルも元気に過ごしてほしいと
約束したからでした。
だからレイラは、
カイルに元気でいて欲しいと願う限り
最善を尽くして、自分も
元気でいなければなりませんでした。
息を深く吸い込んで
気持ちを落ち着かせたレイラは、
ふっくらとしたフィービーを
放しました。
庭をウロウロしていたフィービーは
すぐに森の向こうへ
飛んで行きました。
レイラは朝の日課を終えると、
ビルおじさんに見送られて
家を出ました。
学校の前の道に入ると、
レイラに気づいた子供たちが
「先生!」と呼びながら
嬉しそうに手を振りました。
レイラは自転車から降りると
子供たちと一緒に校庭に入りました。
子供たちは普段よりずっと大人しく
算数と綴りの試験でも
一様に良い成績を出しました。
ストーブを焚き始めた教室に漂う
ほのかなぬくもりも、昼休みに
グレバー先生と交わした雑談も、
雲一つない青空も、
レイラは良いと思いました。
だから笑わなければと、
レイラは気を引き締めて、
カイルの記憶が浮かぶ瞬間ごとに
明るい笑みを浮かべました。
仕事の帰り道でも、
レイラは確かにそうでしたが。
しかし、アルビスに近づくと、
長い間、カイルと一緒に行き来した道を
一人で走る自分の姿を、これ以上、
知らないふりをすることが
できなくなり、
一日中無視していた寂しさが
一気に押し寄せて来ました。
レイラは、
しばらく自転車を道端に止めました。
本当に愚かだった。
道に浮かんだ無数の記憶が一つになって
深い後悔となりました。
血が繋がっていない自分たちが、一生
兄妹のように生きていくことも
できなかったし、
男と女として成長すべき自分たちが
大の仲良しのままでいることも
できなかった。
だから最初から予定されていた
別れだったかもしれないのに、
自分たちは、ふとしたはずみで
そんな気持ちで愛し、傷を負って、
このように・・・
レイラは、
視界がぼやけそうになると、
首を横に振って唇を噛みました。
レイラは、両目を閉じたまま、
自分は、必ず元気に過ごすから、
カイルもお願いねと、
呪文を唱えるように自らを慰めました。
涙を堪えたレイラは
再び自転車に乗りました。
遠くから走ってきた黒い車が
そんなレイラの横を通り過ぎました。
マティアスは、
プラタナスの通りの入り口で
車を止めました。
先に帰れという指示を受けた
随行人たちが車に乗って去ると、
彼は、道に一人で残されました。
マティアスは、
もうすぐレイラが来るのを待ちながら
ゆっくりと歩きました。
靴の下で落ち葉が
カサコソと音を立てている間に
自転車が走ってくる音が
かすかに聞こえ始めると、
マティアスの足取りは
さらに遅くなりました。
だんだん近づいて来たレイラの気配は
マティアスと一定の間隔を空けた所で
止まりました。
そのあたりで、
マティアスも振り返りました。
予想した通り、
止まった自転車と、
そのそばに立っているレイラが
彼の目に入りました。
周囲をきょろきょろしていたレイラは
ぎこちなく挨拶しました。
編んで巻き上げた髪の毛が
半分ほど解けて風に舞っていました。
髪を結う素質が全くないのか、
レイラのヘアスタイルは
いつも整え過ぎているか、
今日のように、
ゆるゆるし過ぎていましたが、
マティアスは、その不器用な姿が
それほど悪くないと思いました。
マティアスは、片手を背中に当て
姿勢を正して頷きました。
レイラは、
自転車のハンドルを握ったまま
大きな目を瞬かせました。
何をどうしたわけでもないのに
かなり不安で
イライラしている表情でした。
「それでは・・・失礼します。」と
もう一度腰を曲げて挨拶したレイラは
自転車を引きずりながら小走りし
マティアスの横を通り過ぎました。
そして、自転車に乗って
ペダルを踏み始めたレイラの
背中を眺めていたマティアスは
「淑女になれ」と言いました。
レイラはぎょっとして
自転車を止めました。
マティアスは、
君が淑女のように行動してこそ
自分も紳士になることを
分かっているだろう?と尋ねると、
自転車から降りることも、
ペダルを再び踏むこともできない
レイラに、ゆっくりと近づきました。
そして、自分が紳士になってこそ
君の鳩も無事だろうと一言付け加えると
レイラはマティアスを振り返りました。
しかめっ面で
彼を見つめていたレイラは、
結局自転車から降りました。
マティアスは、軽く首を傾げて
レイラを見下ろしました。
涙を浮かべた目には
恐怖の色が浮かんでいましたが
歪んだ唇には、
この状況に対する不満と反抗心が
溢れていました。
いくつかの冗談にも震えるレイラを
凝視していたマティアスは、
何事もなかったように
先頭に立って歩き始めました。
レイラは自転車を押しながら
彼の後を追いました。
マティアスはレイラを振り返ると
メイドになれと言った覚えはないと
言いました。
自分の足元だけを見て、影のように
マティアスの後を付いていたレイラは
びっくりして顔を上げました。
頑固ではあるけれど、
幸いにも、言葉を理解できないほど
鈍感ではないレイラは
強張った顔をしながらも、
何歩か彼に近づきました。
しかし、依然として、
最後の一歩は縮まりませんでした。
失笑したマティアスは、
自分が一歩後ろに下がることで
ついに望みをかなえました。
マティアスが再び歩き始めると、
レイラも顔色を窺いながら
歩調を合わせました。
自転車一台を挟んで並んだ二人は
プラタナスの道を歩き始めました。
二人は、特に言葉を交わすことはなく
自転車の車輪が回転する音と
落ち葉を踏む音だけが、
涼しい夕方の風に乗って広がりました。
あんなに長い足なのに、
本当にゆっくり歩く男だ。
レイラは、
なかなか先へ行けない道を見た後、
マティアスをチラッと見ました。
元々、急ぐことなく、
のんびり歩く男でしたが、
今日は特に
ゆっくり歩いていました。
もしかしたら、
不便で気まずい状況のせいで、
訳もなく、そんな気が
するのかもしれませんが。
公爵は、カイルと同じくらいの
背の高さでしたが、彼よりも、
はるかに威圧感が大きいのは
まっすぐで優雅な姿勢と
特有の目つきのためかもしれないという
気がしました。
そして、よく見ると、
体格も、カイルより少し大きくて
がっしりしている感じがしました。
レイラは自分なりの結論を下すと、
徐々に視線を上の方に移しました。
白くてなめらかな手。
濃い灰色のコート。
素敵な形を保っているタイ。
表情のない唇。
そして、自分を見つめている
青い瞳に向き合ったレイラは、
本能的な恐怖に襲われました。
頭を下げればいいのだけれど
なぜか、それが
うまくいきませんでした。
捕らえられたように
その目を見つめている間に、
公爵がゆっくりと唇を開きました。
いつも、たくさんのコメントを
ありがとうございます。
今回の、マティアスに対する
皆様の印象はいかがでしたか?
私は、
フィービー餌付け&人質作戦で
レイラと一緒に歩くことに
成功したマティアスは
なかなかの策士だと思いましたし
レイラと並んで歩くことが
望みだったマティアスのことが
ちょっと可愛いと思いました。
けれども、命令することでしか
そうできないマティアスが
哀れでもありました。
レイラはフィービーのために
マティアスが怖くても、
並んで歩くことを選択しましたが
紅葉したプラタナスの中を
自転車を押したレイラと
マティアスが歩く姿は
とてもロマンティックだと思いました。
それにしてもマティアスは
いつ、どうやって
レイラを観察しているのか。
一部の人たち、特にヘッセンは
マティアスのレイラへの気持ちに
気づいていると思います。
いずれ、クロディーヌの耳にも
入ると思いますが、そのせいで
レイラへの風当たりが
強くならなければいいと思います。