67話 もうすぐエルナの誕生日ですが・・・
誕生日の前日の早朝、
ビョルンは出かけました。
久しぶりに早起きして一日を始める
夫の姿に浮かれていたエルナは、
すでに出発の準備を終えた様子で
食卓に座ったビョルンを
呆然と眺めました。
エルナは、
今日から明日まで、
フェリアの王子たちと狩りに行くのかと
信じられない気持ちで尋ねました。
ビョルンは軽く頷きながら
「うん」と簡潔に答えた後、
話していなかったっけと尋ねました。
エルナは、聞いていない。
今朝、初めて聞いたと答えました。
ビョルンは「そう?」と聞き返すと
すぐに視線を
エルナから新聞に移しました。
食事中に新聞や報告書を読むのは
ビョルンの習慣の一つでした。
向かい合う僅かな時間が
そのように浪費されるのが、
エルナは嫌でしたが、
そんなことは言えませんでした。
落ち着かない様子で
茶碗をいじっていたエルナは、
明日は、いつ頃戻って来るのかと
不安を抑えきれない声で尋ねました。
約束をしたのに、まさかと
心配しました。
新聞を折りたたんだビョルンは
微笑みながら、
どうせ狩りは今日で終わるので
遅くても明日の昼頃と答えました。
エルナを見つめる目も
笑顔のように柔らかかったので
こんな瞬間は、
お互いを深く愛する
本当の恋人のようでした。
エルナは小さな安堵のため息をつき
彼のように笑いながら頷きました。
ビョルンが歴訪中に出席する
ほとんどの社交の集まりは、
公務の領域に属していることを
エルナは、
過去二か月間の旅行で学んだので、
無駄に
駄々をこねたくありませんでした。
もはや新聞に目を向けないビョルンは
いつもより頻繁にエルナを見つめながら
たくさんの話をしてくれました。
温かくて優しいその時間のおかげで
エルナは「忘れていない」と
確信を持つことができました。
王子の任務を全うするために
スケジュールが複雑になりましたが
たった一日だけなので、
残念がらないことにしました。
帰ってきたビョルンと一緒に過ごす
誕生日のことを考えるエルナの顔色は、
再びいつものように
明るくなっていました。
食事が終わる頃、
侍従が急ぎの電報を持って来ました。
二人が静かにやりとりしている間
エルナは、膝の上に
手をきちんと重ね合わせたまま、
斜めに体を回して座っている
ビョルンを見つめました。
初めて見た夫の狩猟服姿を
見つめる視線からは、
改めて好奇心が滲み出ていました。
赤いジャケットから黒いブーツまで
ゆっくり見ていたエルナは、
ビョルンが
何かをメモして渡すのを見ると
突然、勇気が出ました。
メモを受け取った侍従が下がると
エルナは、
欲しいものがあると、
声を精一杯低くして囁きました。
ビョルンは、
言ってみろと言わんばかりに
目配せしました。
ビョルンは、
滅多に、このような欲を
出すことのなかった女の意外な姿に
興味津々でした。
エルナは「手紙です」と告げると
ビョルンは「手紙?」と
聞き返しました。
エルナは
大切にするので、
明日、手紙を一通書いて欲しいと
頼みました。
ビョルンは、
何をそんなにすごいことを
要求するのかと思っていましたが
突拍子もなく、味気ない頼みでした。
じっと妻を見つめていたビョルンは
短く微笑んだ後、
テーブルから立ち上がりました。
そろそろ出発の時間でした。
エルナは、再び、
手紙・・・と頼もうとしましたが
ビョルンは、
言いたいことがあれば言えばいいと
子供を諭すような口調で
エルナの言葉を遮りました。
それほど残酷でも冷たくもなく
より恥をかかせるような
言い方でした。
エルナは勇気を総動員して
言葉と手紙は違うと訴えました。
足を止めたビョルンは、
深くため息をついて立ち止まり
振り返ると、
毎日会っているのに、わざわざ手紙で
意思を伝えなければならない理由は
何なのかと尋ねました。
エルナが適当な理由を見つけられず
躊躇っている間に、
ビョルンは一歩近づき、
「行ってきます」と
すぐに笑顔を取り戻した顔で挨拶し
いつもと変わらない
キスをしてくれました。
全く不愉快そうな様子もなく、
優しい夫の前で、エルナは、
ふと自分が限りなく小さくて惨めで
駄駄をこねてひどい目にあった
分別のない子供に
なったような気がしました。
エルナは、
それ以上せがむことができず
頷きました。
子供を可愛がる大人のように
笑ってくれたビョルンは
馬車に乗り込みました。
すぐに部屋に駆け込みたい
衝動を抑えながら、エルナは、
いつものように夫を見送りました。
落ち着いて挨拶をし、
馬車が遠ざかるまで
玄関の前を守りました。
悩んだ末、
手は振らないことにしました。
最後のプライドでした。
銃声が止むと、
猟犬たちが走り始めました。
フェリアの二人の王子とビョルンは、
犬たちが走った方向に
馬の頭を向けました。
猟犬たちが集まっている
林道の入り口の中央に
撃たれたウサギ一匹が
倒れていました。
侍従たちが獲物を収拾している間、
三人の王子は林道に入りました。
王太子のマクシムは、
春の博覧会の開会式に合わせて
シュベリンを訪れようと
思っていたけれど、
こうして先にフェリアで会えて
どれほど嬉しいことかと、
先に話を切り出しました。
無駄な挨拶をするところを見ると
そろそろ本題に入るようでした。
ビョルンは、
この上なく丁寧で穏やかな態度で、
自分もそうだ。
名射手の腕前を見物する栄誉まで
享受することができたので、
とても嬉しいと言いました。
しばらく狩り場を
歩き回ったにもかかわらず、
二人合わせてキジ二羽、
ウサギ三匹という、
みすぼらしい成果を上げた
二人の王子の口元がブルブル震えると
ビョルンの笑みは
一層鮮明になりました。
仲良くなびいている
鷲と狼の旗を眺めながら、
気を引き締めたマキシム王子は
ビョルンが主導している
両国間の新規債券発行交渉のことを
切り出しました。
お互いを狂犬、ハゲワシと呼ぶ
険悪な関係でしたが、
公共の敵が現れれば、打って変わって
厚い信頼関係で団結して来た歴史が深く
新興強国が連合して伝統的な強国を
牽制している昨今は、
まさにそのような時でした。
プライドは傷つくけれど、
フェリアの財政赤字を解消するためには
レチェンの資金を流用することが
何よりも重要でした。
ビョルンは、
それは財務大臣の仕事だと言うと
急に馬を止めて、
散弾銃を手にしました。
人の気配に驚いて走ってきた
野生の雉が倒れると、猟犬たちが
再び騒がしく吠え始めました。
それから、ビョルンは
自分は新婚旅行をブラブラと
楽しんでいるところだと言うと
何事もなかったように
彼らを見て笑いました。
レチェンの使節団の資金源を
握っているのが誰なのか。
その情報が、
全大陸に広まっていることを
知らないはずがないのに、
極めて厚かましい態度でした。
そのくせ、
強制的に転換すると公表したらしいし
有価証券にも新たな税金が
課せられるそうだと、
本性を隠す気もないというのが、
ビョルン・デナイスタの
特に気にくわない点でした。
フェリアの二人の王子は、
密かに視線を交わし、
意見を調整し始めました。
マクシム王太子が口を開いた瞬間、
勢子に追われて怯えた子鹿が
現れました。
王太子は、
反射的に銃を構えた弟を阻止し、
ビョルンを指差しました。
その意味に気づいた王子は
素早く銃を下ろしましたが、
なぜかビョルンの銃声が
聞こえて来ませんでした。
彼は、狩りに全く熱意がない様子で
じっと鹿を
見下ろしているだけでした。
怪訝な目で見ていたマクシム王太子が
銃を構えると、
ビョルンは片手を上げました。
明らかに彼を止める仕草でした。
その間、母親らしき大きな鹿が
道端に姿を現しました。
死地に追いやられた子を
探しに来たようでした。
皆が戸惑って沈黙している間に、
子鹿は、
よろよろと母のそばに近づき、
母鹿が自分の子を連れて
森の奥深くに逃げる間、
ビョルンは、ただじっと
その光景を見守るだけでした。
一見、幼い獣に慈悲を施した
善良な王子の姿でしたが、
あのレチェンの狂犬を
よく知っている人たちの目には、
いったい何を企んでいるのか分からず
ぞっとする光景でした。
マクシムが
捕まえないのかと尋ねると、
ビョルンは躊躇うことなく頷き、
「はい、可愛いじゃないですか」と
春の日差しのように温かい笑みを
口元に浮かべながら答えたので
見守る人たちの恐怖は
さらに深まりました。
赤ちゃん鹿の意味するところは何か。
走るから、鉄道敷設権?
それとも森に住んでいるから
山林伐採権?
激しく悩む二人の王子の目つきが
揺れようが揺れまいが、
ビョルンはさりげなく
再び馬を走らせ始めました。
適当な結論を出せなかった
フェリアの王太子は、
とりあえず、
鹿には手を出すなという命令から
伝えました。
そして、急いでビョルンの後を追う
彼の唇は、
本当に嫌な狂犬。
変態のような狂犬という
どうしても吐き出せない悪口の重みで
斜めに傾いていました。
朝から降った雪が止んだ午後。
五つの雪だるまを作った後、
エルナは、ようやく未練を捨てました。
エルナは無表情で、
バルコニーの手すりに並んでいる
可愛らしい雪だるまたちを眺めました。
もしかしたら、
ビョルンが戻って来るかもしれないと
期待して、
バルコニーをウロウロする度に
一つずつ作って来たものでした。
一人で迎えた誰も知らない誕生日が
少し寂しかったけれど、
天からの贈り物のように
きれいな雪が降っていたし、
すぐにビョルンも戻って来るので
エルナはときめいていました。
手紙はもらえなかったけれど、
一緒に大聖堂のドームに
上れるということだけで
胸が溢れそうでした。
しかし、結局こうなってしまいました。
エルナは、
真っ赤になった自分の手と
五つの雪だるま。
そして白い雪で覆われた風景を
順番に眺めました。
未練が消えたせいか、
一日中、続いていた悲しみも
消えました。
ビョルンは来ないし、
自分は一人だという事実を、
再び淡々と受け入れると、
エルナは初めて
背を向けることができるように
なりました。
今さら人々に知らせるのも
馬鹿げているので、
どうしても二十歳の誕生日は
一人で過ごさなければ
ならないようでした。
暖炉の前にぼんやりと座って
体を温めていたエルナが
衝動的に立ち上がって
外出の準備をしたのは
午後遅くのことでした。
久しぶりに
休みのような一日を迎え、
浮かれた随行団の使用人たちは、
煙のように静かに抜け出した
大公妃の気配を感じませんでした。
無事に迎賓館の正門を抜け出した
エルナは、
静かな目で曇った空を見上げました。
昨年の今日、家族と一緒に過ごした
誕生パーティーのことが
思い浮かびました。
暖炉の明かりは暖かく、
テーブルいっぱいに並べられた食べ物は
美味しかった。
あの時の自分がどれほど幸せだったのか
エルナは今になって
分かった気がしました。
しばらく、
その場に立ち尽くしていたエルナは、
赤くなった目頭を強くこすった後、
雪が積もった道を
小走りし始めました。
エルナは、滅多に
このような欲を出すことがない。
そう考えた時点でビョルンは、
10日前に、大聖堂のドームに
一緒に上るという約束を
覚えていなかったと思います。
でも、エルナはそんなことを
分かるはずがないので、
狩りに行くと聞いて、
約束を覚えていないのではないかと
不安になったけれど、
きっと覚えていると
信じたかったのだと思います。
雪だるまを作っている間も。
けれども、
結局忘れられてしまったことに
気づいたエルナは、自分が
ビョルンから愛されていないと
失望したかもしれません。
ビョルンから祝ってもらえなくても
誰かに誕生日を祝ってもらいたい。
けれども、自分の悪口を言っている
カレンに、そんなことは言えない。
だから、エルナは、
自分一人で祝うことにして
大聖堂に向かったのだと思います。
それにしても、迎賓館の正門の前に
警備兵はいなかったのでしょうか?
まさか、
大公妃がお供も連れずに一人で、
しかも雪道を歩いて
出かけるはずがないと思い
メイドだと勘違いしたのだと
思うことにします。