68話 ビルおじさんを助けるために、レイラはマティアスからの要求を呑むのでしょうか。
小屋の前をウロウロしていたモナ夫人は
戻って来たレイラに駆け寄り、
弁護士は何と言っていたかと
尋ねましたが、
レイラは小さく首を横に振りました。
ビル・レマーを気の毒に思った
アルビスの使用人たちは、
主人一家に内緒で
法律事務所で弁護士に会えるお金を
用意しました。
何度もお礼を言って
そのお金を受け取った時、
レイラの顔には、
微かに希望の色が浮かんでいましたが
今は深い絶望しか
残っていませんでした。
モナ夫人は、
老婦人は許したがっているけれど
奥様が頑固に反対しているそうだ。
わざと
そうしたわけではないのだから
大抵のことなら、
許してくれそうなのにとぼやきました。
レイラは、
なんとか一度、奥様に会えないかと
尋ねました。
モナ夫人は、
それは、あまり良い方法ではないと
思うので、
むしろ公爵に会ったらどうか。
老婦人担当のメイドから聞いたけれど
二人の意見の
折り合いがつかなかったので、
公爵に決定を任せることにしたそうだと
話しました。
ゆっくり瞬きしていたレイラは
一瞬、めまいがして、
よろめきました。
モナ夫人は急いでレイラを支え、
小屋の中に入りました。
レイラを暖炉の前の椅子に座らせた
モナ夫人は、
不幸中の幸いだ。
こういうことに関しては、
二人の奥様より、むしろ公爵の方が
寛大だと思うので、
もう一度希望を持ってみようと言うと
震える肩を優しく撫でて
慰めてくれました。
そして、これではレマーさんより
先に体を壊してしまうので
何でも食べなければならない。
レイラが好きなものを持って来たと
言いました。
レイラはお礼を言うと、
後で少し食べると
気が抜けた人のように
返事をしました。
モナ夫人は、何度もため息をついた後
小屋を出ました。
ドアが閉まる音が聞こえて来ると
レイラは両手で顔を覆いました。
法律事務所で会った弁護士は、
運が良ければ、
獄中生活を免れることができるけれど
訴訟には、必然的に
長い時間と費用がかかる。
それに、どうせ弁償の責任は
避けられないだろうから、
公爵家と法廷で争うのは
愚かな選択だと、警官よりも
絶望的な返事をしました。
そして、弁護士も、
善処を求めるのが最善だと言いました。
ヘルハルト家の善処。いや、
もう公爵の善処と言うべきでした。
あの男に会ってから、
もう三日が過ぎました。
あのとんでもない取引などに
応じるわけにはいかないと
もがいていましたが、
結局、再び公爵の前に
投げ出された気分でした。
苛立たしげに唇を撫でていた
レイラは、
立ち上がって台所に行きました。
お茶を入れる余裕もなく、
冷たい水だけを数口飲みました。
数日間、まともに食べることも、
寝ることもできなかったせいか、
全身が空っぽになったようでした。
しかし、おじさんは、
もっと苦しいだろう。
数日間で、
めっきり老けてしまったような
ビルの顔が浮かび上がると、
みぞおちの先を、鋭いもので
引っかかれるような痛みが
押し寄せて来ました。
レイラはテーブルの端に座りました。
カイルが去り、
ビルおじさんが閉じ込められ、
今や一人だけの場所が与える孤独感に
ぞっとしました。
このままでは生きていけない。
だから何とか、ビルおじさんを
救わなければならない。
しかし、唯一の道は、
公爵が提案した取引に
応じることだけで、 何をやっても
その結論は変わりませんでした。
レイラは、歯を食いしばって
椅子から立ち上がってみましたが、
一歩も踏み出すことができず、
再び座り込んでしまいました。
自分を見た公爵の目が思い浮かぶと、
羞恥心で、
全身がブルブル震えて来ました。
むしろ欲情のようなものに
狂っている目だったら、
このように大きな侮蔑感は
感じませんでした。
あの瞬間、公爵はただ平然としていて
いくらか、
楽しそうに見えたりもしました。
あれは、
ただ楽しむために狩りをする時、
そしてレイラをひどく苦しめて
泣かせた時の表情でした。
何度も立ち上がって座り込むことを
繰り返していたレイラは、
倒れるように
テーブルの上に体を伏せました。
もう涙は流れなかったけれど、
その代わりに荒い息が
涙のように流れ出ました。
他人から見れば、
何でもないかもしれませんが、
レイラにとっては、
この人生があまりにも大切で
最善を尽くして守って来ました。
そして、これからも、
一生懸命、恥ずかしくないように
そうやって生きて行きたいと
思っていました。
この人生を、たかがあの男の
取るに足らない欲望と興味で、
むやみに踏みにじられるままに
なってはならないと、
レイラは決意を固めました。
でも、そうしたらビルおじさんは?
その名前は、
結局すべてを元の位置に戻しました。
暗くなっても、レイラは長い時間
頭を上げることができませんでした。
最後に検討した書類に
サインをした時、
夜がかなり更けていました。
マティアスは待機中の随行員に、
先に帰ってもいいと命令しました。
受け取った書類を手にした彼が
静かに退くと、離れにいるのは、
マティアス一人になりました。
本来も、
ここで長い時間を過ごしましたが、
最近は
邸宅で電気を使うことができないので
離れに留まる時間が増えました。
もちろん、
それだけが理由ではないということを
マティアスは素直に受け入れました。
今夜はレイラが来るだろう。
マティアスは、
漠然とそんな予感がしました。
他の解決策を探そうと
数日間、努力していたので、
選べる唯一の道が何かを
今頃、気づいただろうと
思いました。
ビル・レマーのミスが
手の施しようもないくらい
大きな事故につながったあの日、
連行される彼を呼びながら
座り込んで泣いていた
レイラと目が合った瞬間、
マティアスは、
逃げようとする、あの美しい鳥の羽を
むしり取る方法が何か分かったので
ただ、それに従いました。
もちろん、
最も望んでいる喜びを得るには、
適切ではない方法だということを
知っていましたが、
まず 逃げられないように、
自分のそばに住めるように
しっかり、
つかまなければなりませんでした。
順序が逆転し、もしかすると
遠回りすることになっても、
彼は必ず、自分が望むその喜びまで
見つけ出せるだろうと思いました。
マティアスは
煙草をくわえましたが、
火は点けませんでした。
その時、
躊躇いの気持ちが滲み出ている
力のないノックが、
微かに聞こえました。
タバコを灰皿に投げ入れた
マティアスは、ゆっくりと
ソファーから立ち上がりました。
しばらく、その場に立っていた
マティアスは、蠢いていた喉が
落ち着いてから、
ようやく足を踏み出しました。
玄関のドアを開けると
マティアスが予想した通り、
レイラがいました。
何も言わずに見つめ合った後、
マティアスは一歩後ろに下がって
レイラの入る道を開けました。
とりわけ寒いこの夜に、
コート一枚も着ないで
真っ青になっていた彼女は、
ブルブル震えながら
中に入りました。
ドアが閉まり、鍵のかかる音が
響き渡りました。
レイラは、数日前、初めて公爵に
ビルおじさんの善処を懇願した
その場に立ち止まりました。
あの日と同じ姿勢でしたが、
純粋な信頼と希望が消えた顔には、
諦めと恐怖だけが残っていました。
それにもかかわらず、
無意味な未練を残している彼女を
喜んで尊重するように、
マティアスも、あの日のように
ソファーに足を組んで座りました。
レイラは、
何度も深呼吸を繰り返した末に
公爵にとって、自分は何でもないと
言いました。
マティアスは、その言葉に
あまりにも虚しさを感じ、
笑ってしまいました。
彼は「それで?」と尋ねました。
レイラは、
何でもない女のために、
その女に対する
ちょっとした欲望のために、
公爵の人生に汚点を残すことになれば
それは
公爵に損害を与える取引ではないか。
だから、他の条件を言って欲しい。
自分は、本当に何でもやると
答えました。
暗かったレイラの目に、
微かに光が差しました。
しばらくマティアスは
眉を顰めましたが、すぐに彼の目に
嘲けりの色が広がりました。
彼は、
ベルクの南にある保養都市に
自分たちの家門が所有する城が
一つあると言いました。
彼のとんでもない言葉に
レイラの目が揺れました。
マティアスは、
なかなか美しく、
この帝国で名高い城だけれど、
祖父が愛人のために買い取った。
その人は、
その城で可愛がられながら生きて
この世を去った。
父親は音楽が好きだった。
そのためか、
音楽家の女たちを近くに置いたけれど
一番長く父親のそばにいた女性は
名高い歌手で、
とても実力が優れていたので、
母親も結構喜んでいたと話すと
物思いに耽っていた目を上げて
レイラを見ました。
そして、二人の評判がどうだったか
教えてやろうかと提案しました。
少し優しい口調に、レイラは
最後の戦意まで
失ってしまいました。
世を去った後も、依然として
町中の人々から尊敬されている
その輝かしい名前を
知らないわけがありませんでした。
マティアスは、
自分の心配は、
これくらいでいいと思うと告げると
レイラの意思を尋ねました。
激しく上下する胸と
細い首を過ぎたマティアスの視線が
ぼんやりとしたレイラの両目に
向かいました。
レイラは、何度も顔を背けて
後ろを見ていましたが、
再び、マティアスを見ると、
一晩でいいのですよねと尋ねました。
レイラは、
ここへ来る決心を固めた瞬間、
すでに覚悟していましたが、
あの男にとって、自分は
つまらない存在に過ぎないけれど
自分自身の人生は
この上なく大切で誇らしいので、
僅かな可能性にでも
すがりついてみたいと思いました。
しかし、自分は、
彼の人生の汚点にもなれないことを
悟ると、レイラの心は
むしろ落ち着きました。
彼女は、
転んだり、木から落ちて怪我をしたのと
同じことだと考えよう。
ただ、少し運が悪くて傷が深いだけ。
しかし、結局、傷は治るので、
自分は、また立ち上がって、
いくらでも、
たくましく歩いていけると思いました。
しかしマティアスは、
そっと口角を上げると
自分は損する商売をしないと
言ったはず。
たった一晩で、あのすべての損害を
肩代わりできるほど、
自分のことがすごいと思っているのかと
尋ねました。
レイラは、まさか本当に自分の
愛人にするという意味なのかと
尋ねました。
マティアスは返事もせずに
レイラをじっと見ました。
レイラは、もう我慢できなくなり、
背を向けましたが、
数歩も歩くことができず、
立ち止まるしかありませんでした。
このまま離れを出れば、
唯一の希望さえ消えてしまう。
ビルおじさんは監獄に閉じ込められ
苦しい訴訟が続き、
たとえ釈放されても、
二度と以前の人生に
戻ることはできないだろうと
思いました。
レイラは歯を食いしばったまま
振り返りました。
このすべてを予想した人のように、
公爵は、ただゆっくりと
ソファーに寄りかかって
レイラを見守るだけでした。
結局、彼は欲しければ、
何の呵責もなく面白半分で、
壊してでも手に入れて捨てる人。
弾を命中させて死なせれば
それでおしまい。
いい加減に放り投げられた、
あの血まみれの鳥たちのように、
自分もそうなる。
赤くなった目で睨みつける
レイラの視線を
喜んで受けていたマティアスは
ニッコリ笑って体を起こしました。
逃げることもできないし、
かといって素直に待つことも
できなかったレイラは、
つい、その場に
座り込んでしまいました。
マティアスは驚きもせず、
当惑した様子もなく
レイラの前にひざまずきました。
そして気兼ねすることなく
ブラウスの最初のボタンを外すと
レイラは反射的に
前の部分を握りしめながら
体を離しました。
マティアスは熱い息を吐きながら
何でもやらなければと言うと、
ブラウスを握ったレイラの手の甲を
指先で軽く撫でながら笑いました。
そして、すぐにレイラの顎を
痛くなるほどつかみながら、
いやなら、出て行くドアはあそこだと
レイラの顔を強制的に
応接室のドアの方へ向けました。
そして、選択するのは、
君の役目だと言わんばかりに
手を引きました。
レイラは、
追い詰めては、
まるで自由を与えたように
憎たらしく残忍に自分の心を踏みにじる
このような態度に
何よりも、うんざりしました。
レイラは、
静かにブラウスを離しながら、
あなたのことは絶対に許さないと
泣き声で呟きました。
マティアスは、
「まあ、ご勝手に」と言って
クスクス笑うと、ブラウスの前立てを
力いっぱい引っ張りました。
引きちぎれたボタンが
床とカーペットの上に散らばりました。
押し倒された体が床に触れた瞬間、
レイラは、
楽しみにしているよという
優しく囁く声を聞きました。
レイラは、呪いの言葉でも
浴びせようとしましたが、
何が起こったのかを悟った時、
すでにマティアスの唇は
レイラの唇を飲み込んだ後でした。
あっという間に舌が絡まり
荒い息が混じり合いました。
被害を避けようと努力しましたが
マティアスの体が与える威圧感は、
以前とは
比べ物にならないほど大きかったので
無駄でした。
ガーターに固定されていた
ストッキングを、
かきむしるように引きずり下ろす
大きな手に込められた力と熱気。
苦しそうな息づかいと嬌声。
そして、マティアスは、
腕力で広げたレイラの両膝の間に
身を置きました。
スカートと下着が一気に
カーペットの上に放り出されました。
腰を立てて座ったマティアスは、
「きれい」と言って、
まるで自分の被造物を鑑賞するように
レイラを見下ろしました。
アルビスの使用人たちが
皆、優しいのは、ひとえに
カタリナ様の人徳によるものだと
思いました。
カタリナ様が亡くなった後、
エリーゼ、あるいはクロディーヌが
アルビスの采配を振るようになったら
使用人の質も
変わってしまうように思います。
ビルおじさんを助けたければ
愛人になれと脅迫するよりも
先に、ビルおじさんを助けて
レイラから感謝される方が
最も望んでいる喜びを
得られることが
マティアスも分かっている。
けれども、マティアスは
手っ取り早く、強硬に
レイラを閉じ込める手段を取った。
けれども、それは
恥ずかしくないように生きたいという
レイラの気持ちを
踏みにじってしまった。
優しい面を見せてくれた
マティアスを信じて、
ビルおじさんに善処して欲しいと
頼んだのに、レイラには
辛い結果となってしまいました。
マティアスは、力ずくで
レイラを自分のものにしたけれど
今後、マティアスが望む笑顔を
レイラは見せないのではないかと
思います。
今、レイラの心は
壊れてしまった状態ですが、
再び、困難を乗り越える力を
取り戻して欲しいです。