69話 レイラはマティアスと一緒に夜を過ごしています。
ぬかるみのような快感の余韻に
浸っていたマティアスは
「約束」とレイラが、
かすかに囁くのを聞いて、
意識を取り戻しました。
依然として彼女の中に体を埋めたまま
頭を上げると、
ひたすら自分を見つめている
緑色の瞳が見えました。
痛いくらい強く巻いて握っていた
髪の毛を離した手で、
マティアスは、
まだ、ほんのりと赤いレイラの頬を
包みこみました。
「善処、約束は必ず・・・」
と、荒い息の合間に
ぽつりぽつり漏れる言葉の意味を
理解したマティアスは、
虚しい失笑を漏らしました。
こんな瞬間さえ、
切迫した様子の、この可愛い女が
不思議にも、
あまり嫌ではありませんでした。
目的が何であれ、
彼を湛えている澄んだ瞳は
宝石のように美しかったからでした。
マティアスが無言で
ただ見下ろしていると、
レイラは床に垂れていた手を
苦労して持ち上げて、
彼の腕をしっかりとつかみました。
もう少し遅れると
泣き出しそうな顔をしていたので、
マティアスは、このくらいで
勝てないふりをして
頷きました。
するとレイラは、
ため息をついて彼の手を放し、
その手が床に着く前に
瞼も閉じました。
もう一度だけ。
自らも理解できない願いを込めて、
マティアスは、しばらく経っても
レイラを見守りました。
しかし、首をかしげたまま
目を閉じているレイラの顔から
見つけられるのは、
頑強な拒否だけでした。
もう一度ニッコリ笑ったマティアスは
レイラの髪を再び力いっぱいつかんで
自分の方へ引き寄せました。
痛みに怯えたレイラの目と
マティアスの冷たい目が
ぶつかりました。
マティアスは、急襲するかのように
唇を下ろしました。
かなり公正な取引でした。
深い眠りから覚めると、
いつの間にか部屋中が
明るい光で満たされていました。
レイラはかろうじて起き上がり、
ベッドの枕元にもたれかかりました。
悪夢ではなかったのかと、
微かな期待を抱いてみましたが、
体のあちこちに残っている
昨夜の痕跡と痛みは、
一瞬の錯覚すら許しませんでした。
レイラは、
めちゃくちゃな自分の姿を
ぼんやりと眺めました。
彼女は公爵の離れから
戻ってきたままの姿で倒れて
眠りにつきました。
直ちに、あの男の痕跡を
消してしまいたいと
切実に願いましたが
指先一つ動かす余力が
残っていませんでした。
気を失わずに小屋まで戻って来たのが
昨夜、レイラができた最善でした。
手の跡と血痕、
そして、それが何なのか
考えたくもない跡でいっぱいの
自分の体を見下ろしたレイラは、
身震いしながら
ベッドから立ち上がりました。
全身が壊れそうなくらい痛く、
その痛みが思い起こさせる記憶に
しきりに目頭が赤くなりました。
大したことではない。
レイラは体を洗ってまた洗って
懸命に心を落ち着かせました。
しかし、レイラは、結局、
大したことではないことになることを
知っていました。
だからこそレイラは、さらに必死に、
その自己欺瞞にしがみつきました。
そのおかげか、
服を着替えて食卓の前に座った時は
一層毅然としていました。
何でも食べて、気力を出して、
ビルおじさんに会おう。
レイラは、
目の前に迫ったことだけにすがりつき
モナ夫人が持って来た食べ物を
皿に取りました。
何も飲み込めなさそうでしたが、
無理やり、水と一緒に
食べ物を飲み込みました。
やっと、最後のパンの一切れまで
飲み込んだ後、
食卓の端に置かれている手紙の束を
発見しました。
それを手に取った時、
淡々としていたレイラの表情は
すぐに茫然自失に陥りました。
それは、
カイルからの手紙だったからでした。
信じられなくて何度も見直しましたが
間違いなくカイルの筆跡で、
全てカイルからの手紙でした。
しばらく凍りついたように
ただ手紙を持っているだけだった
レイラは、ブルブル震える手で
一番上にある封筒を開けました。
愛する俺のレイラ。
秋の初めにカイルが送って来た
最初の手紙は、
そのように始まっていました。
本当に、何と言ってよいか
分からないほど感謝していると
ビル・レマーは顔を真っ赤にして
しきりに頭を下げました。
数日で、
めっきりやつれた姿でしたが、
希望を取り戻した瞳だけは、
普段よりずっと明るく
輝いていました。
こんなに善処してくれるなんてと
ビルは言葉を濁しながら
目を赤くしました。
幸いにもレイラは、
彼の心が落ち着いた後、
警察署に入りました。
「レイラ!」
ビルの雄叫びが鳴り響きました。
警察署にいたすべての人々、
ビルを善処するために訪れた
ヘルハルト公爵と弁護士の視線まで
一斉にレイラに向かいました。
これはどういうことなのかと言って
釈放されたビルと対面した
レイラの顔に浮かんだ
溢れんばかりの笑みは、
ヘルハルト公爵と目が合った瞬間
消え去ったように
跡形もなくなりました。
こわばっているレイラに
近づいて来た警官が、
公爵がビルを善処してくれたと
笑いながら説明し、
お祝いの言葉を述べました。
「あっ・・・はい」と返事をすると
レイラは再びマティアスを見ました。
昨夜の記憶などは、
きれいに消した人のように、
レイラを見る目は超然としていました。
レイラは、こみ上げてくる
数多くの感情を抑えながら
お礼を言って、深く頭を下げました。
しかし、いくら頑張っても
どうしようもなく手が強張り、
しきりに乾いた唾を飲み込み、
瞳が揺れました。
ぎこちなく見えたはずだけれど
ヘルハルト公爵を除き、
幸いにも、
それを気にする人はいませんでした。
公爵家の弁護士と警官たちが
話をしている間、
マティアスとレイラの視線が
再びぶつかりました。
その間に気が変わったのか、
レイラはギュッと唇を閉じたまま、
じっと彼を見つめました。
虚勢を張るなら、あの震える手から
隠した方がいいだろう。
血の気のない小さな手を
チラッと見たマティアスは、
あきれてプッと失笑しました。
弁護士だけ送ればいいことなのに
わざわざ時間を割いた理由は
もちろん、
あの女レイラ・ルウェリン、
彼の不埒な愛人でした。
離れが再び静けさを取り戻した頃
レイラはもちろん、マティアスも
見事に乱れていました。
血痕で滅茶苦茶になったシャツ。
むしり取られたカフスボタン。
汗に濡れた髪の毛。
そんな格好になるまで、
床で我を忘れて転がった
自分の姿を見たマティアスは、
自嘲しながら身を起こしました。
レイラはカーペットの上で
丸くなって横たわっていました。
膝の下まで下がっているストッキングと
靴が、彼女が体に纏っている
全ての物でした。
薪がはぜる音の間に、
微かな息づかいが聞こえて来ました。
身なりをざっと整えたマティアスは、
ソファーに斜めに座って、
そんなレイラを見下ろしました。
頑固に背を向けているので、
顔を見ることができないのが
むしろ幸いでした。
乱れた長い髪が
露わになった背中と肩を
すっぽり覆っていました。
真っ白な尻と太ももには
彼の手の跡と血痕が
赤く残っていました。
痕跡が簡単に残る体というのが
かなり気に入りました。
名前を呼ぼうとして
気が変わったマティアスは、
普段とは違う焦った手つきで
タバコを一本取り出しましたが、
火を点けるという考えまでには
至りませんでした。
それから、レイラのつま先まで
ゆっくり視線を移したマティアスは
それよりも、さらにゆっくり
視線を頭の先に移しました。
微動だにしない態度に
神経が逆撫でられました。
その気になれば、たった片手だけでも
彼女を引き寄せることができましたが
マティアスが望んでいたのは
それではありませんでした。
マティアスはタバコを
くしゃくしゃにして
灰皿に投げ入れました。
応接室から寝室まで、
そのわずかな距離を我慢するほどの
忍耐心もなかった自分の姿が情けなく
眉間にしわを寄せました。
そうしたからといって、
何か大きく
変わったわけではないだろうけれど、
あんなざまで
床にぐったりしているのを見る
汚い気持ちは
感じなかったはずでした。
無理にでも起こす決心をして
立ち上がりましたが、
マティアスは、ついにレイラに
触れることができませんでした。
一歩踏み出す彼の足音だけでも、
レイラは硬く凍りつきました。
それにもかかわらず、
最後まで振り返らない
そのすさまじい意地に、
マティアスは静かに空笑いしました。
彼は椅子の背もたれにかけていた
ジャケットを、
震えているレイラの上に
ポンと投げました。
レイラは、
体を大きく動かしましたが、
やはり振り向きませんでした。
踏みにじられて侮辱されている側が
どちらなのか、
なかなか見分けがつかないほどでした。
深呼吸をして、
くだらない気持ちを抑えながら、
マティアスは、
つい浴室に向かいました。
レイラに対して、
多分にイライラしていましたが、
何をどうすればいいのか
途方に暮れてもいました。
さらに荒唐無稽なのは、
それでもかなり楽しく満足していて、
シャワーを終えて浴室を出る頃には、
レイラを、一度
宥めてみようという気もしました。
そのため、
がらんとしている応接室に
向き合った時に感じた戸惑いは、
さらに大きくなりました。
離れのあちこちを見ても
レイラを見つけることができない
現実の前で、結局、マティアスは
レイラが勝手に逃げたという
恥辱的な結論を
受け入れなければなりませんでした。
いくつかの
引きちぎれたブラウスのボタンと
汚れたカーペット。
そしていくつかの金色の髪の毛が
レイラが残していった
唯一の痕跡でした。
椅子の背もたれに
再びきちんと掛けられた
自分のジャケットを見た時、
皮肉な笑みがこぼれました。
凍てつく冬の夜明けの森の道を
あの体で、
ボタンもないブラウスの前を
握り締めながら走って行ったはずの
レイラ・ルウェリンの姿と、
そうするほど自分が嫌だった
彼女の気持ちが、
生々しく描かれました。
昨夜、マティアスが
レイラを追いかけなかったのは、
自分の忍耐が限界に達したことを
よく知っていたためでした。
もし、もう一度会っていたら、
レイラに好意的に接することは
できなかっただろうと
考えたからでした。
今、レイラを目の前にしてみると、
依然として、一人残された
昨夜のような気分がするので
その判断が正しかったと
確信できました。
本当に大きな決心をしてくれた。
やはり広く尊敬される
ヘルハルト家の主人らしいと
警官が口にした驚嘆の言葉が
マティアスの意識を
現実に引き戻しました。
適切な謙譲の返事で
会話を終えたマティアスは、
警察署を出ました。
ビルとレイラはもちろん、
警官たちまで列をなして
彼の後を追いました。
待機中だった随行人と運転手も
急いで車から降りて
主人を迎えました。
ビルは、この恩は
死んでも絶対に忘れないと言って
再び頭を下げました。
「どういたしまして」と
淡々と返事をしながら、
マティアスは庭師のそばに立っている
自分の女をチラッと見ました。
美しく煌めく目で
レイラも彼を見ました。
睨んでいると言った方が
ずっと適切でしたが。
アルビスでまた会おうと言って
マティアスは車に乗り込みました。
最後の瞬間までレイラは
作り笑いを一度も見せませんでした。
車の窓から目を移した
マティアスの口元が
柔らかく曲がりました。
あの女が自分の前で
めちゃくちゃになる姿を
彼は必ず見るつもりでした。
ずっとここで暮らせるなんて
どうしてなのかと、
レイラは信じられなくて
聞き返しました。
ビルは、喜びを隠せない顔で、
レイラの頭を撫でました。
市街地から一緒に歩いてきた二人は
いつの間にか、
アルビスの正門が見える道に
入っていました。
ビルは、
今までのように狩場の小屋で暮らし
アルビスのために働けるよう
公爵が配慮してくれた。
自分にも
恥というものがあるから、
あのような大きな事故を起こしておいて
前と同じように働けないと断った。
しかし、公爵は
自分が台無しにした温室を
以前のように復旧するのに力を貸すのが
最大の贖罪ではないか。
アルビスの天国を築いたのが
自分なら、その天国を取り戻すのも
自分だと言ってくれた。
聞いてみると、その言葉も一理あると
再び思い出しても、感激する言葉に
ビルの目頭が赤くなりました。
なすすべもなく、
監獄に行くことになると
思っていた数日は生き地獄でした。
自分の身を滅ぼすことになった恐怖より
レイラを一人残すことへの
罪悪感に、より苦しんだ日々でした。
レイラは、
二人の奥方も許してくれたのかと
尋ねました。
ビルは、
老婦人は喜んで承諾してくれたし、
結局、奥方も、公爵の説得に
同意してくれたそうだ。
このすべては公爵のおかげなので、
彼は自分たちにとって恩人だと
答えました。
レイラは、恩人という、
あの残酷な男には
似合わないような言葉に
突然めまいを感じました。
絶対に、
ビルおじさんに知られてはいけない。
その誓いを繰り返して
ようやく気を引き締めましたが、
不安そうな心臓の鼓動まで
静めることはできませんでした。
ビルは、
数十年の歳月を捧げた所だからか、
このアルビスの庭園と温室は
まるで自分の体の一部のようだ。
それを自分が壊してしまったという
拭いきれない罪悪感が
残るところだったけれど、
温室を前のように戻せば
少なくとも一番大きな心の荷物は
一つ減るようだ。
大きな恩を返す道でもあると
言いました。
レイラは、震える声を
どうしても隠すことができず
「はい、おじさん」と
短く答えました。
ビルはレイラに、
もうあまり心配するな。
お前のためにも注意して、
前よりもっと頑張ると言うと
正門の前で立ち止まって
レイラの肩をそっと抱きました。
ひどく傷ついた顔に
いつのまにか活気が戻っていました。
ビルが帰って来たという知らせを聞いて
待っていた使用人たちが
どっと集まって来ました。
おかげで、しばらく息をつくことが
できるようになったレイラは、
精巧で美しく作られた
鉄格子のようなアルビスの門を
じっと眺めました。
ぼんやりとした瞳の中で
金色の紋章が華やかに輝きました。
レイラは
孤児だった自分を引き取ってくれて
温かい家と、
平穏な暮らしを与えてくれた
ビルおじさんを、
自分の身を投げ出してでも
助けたかった。
マティアスも、
それを分かっていたはずだから
レイラを自分のものにするとしても
もう少し優しく
レイラに接して欲しかったです。
現時点で、レイラは
カイルの手紙を読んで
どう思ったのか書かれていませんが
彼女に対する愛情いっぱいの
優しい手紙を読んだ後に、
マティアスの乱暴な
欲望の犠牲になったことで
ひどく傷つき惨めな気持ちになったと
思います。
床の上での行為は、
さらにレイラの気持ちを
惨めにさせたと思います。
自分の優位な立場を利用し、
力ずくでレイラの尊厳を踏みにじった
マティアスを許せません。
せめてもの救いは
ビルおじさんが自分の心配よりも
レイラのことを
心配してくれていたこと。
そして、アルビルの使用人たちも
ビルが戻ってきたことを
喜んでくれたことでした。
レイラは、心のどこかで
ビルがアルビスを追い出されることを
期待していたのかもしれません。
けれども、マティアスは
レイラを逃がさないために
ビルが納得できる言葉で
彼を引き留めた。
レイラは、鉄格子のような
アルビスの入り口の門に、
自分が閉じ込められていると
ひしひしと感じたのかもしれないと
思いました。
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いつもたくさんのコメントを
ありがとうございます。
皆様と、色々な考えを
この場で共有できて、
とても嬉しく思っております。
コメントにつきまして、
皆様に一つお願いがあります。
今後も、レイラとマティアスが
絡むシーンが出てくると思いますが
それについてコメントされる際、
口に出すのを憚る単語につきましては
伏字にするとか、
歪曲した言葉をお使いいただけると
嬉しいです。
68話へのコメントの中で、
私自身が表に出したくない単語が
含まれていたコメントにつきまして
一度は、承認したものの、
やはり気になってしまい、
申し訳ないと思いつつ
取り消させていただきました。
お忙しい中、
コメントしていただいたのに
大変、申し訳ありません。
文章には何の問題もなく、
単に私が、ある単語が
気になっただけですので
ご容赦いただけますと幸いです。